茨の冠 (リヴァイ×エレン)
忘れていた訳ではない。それでも、五年の年月を経て、オレ達でも戦えるんじゃないかと思っていた。ここからだと、人類の反撃はここから始まるのだと、哨戒で壁上に立ち、仲間を見て思っていた。
目の前に、あの忌まわしい五年前の大型巨人を見たとき、沸き上がったのは、憎悪を凌駕する闘争心。
人類は巨人の『餌』なのではない、奴らこそが『獲物』なのだと。
訓練を終えたばかりの新兵にもなっていない卵の殻がとれかけの雛、そんなことはエレンの頭にはなかった。
両手は剣の柄を握りしめて抜刀していた。
「目標、大型巨人!」
それは、獲物を狩れ、こいつらの項を刈り尽くせという明確な意志。
殺意という言葉でも足りない程の、明確な殺戮衝動。
蒸気とともに一瞬で消えた存在に、エレンの意識がぶれる。五年前もそうだった。どうしてあの巨体が壁際に来るまで気がつかないのか。
そして、消えた奴はどこに向かったのか。
そんな問いも壁を越えてくる巨人に対して消えてしまう。
ここを突破されれば、人類に後はない。だが、ウォール・マリアを超えてきた巨人を思い出した人間にとって、彼等は悪夢以外の何者でもない。
あのジャンですら、弱音ともつかない自暴自棄に陥っていた。
しかし、エレンの胸にあるのは恐怖よりも高揚感だった。巨人を狩れるという意識が、脳内を埋め尽くす。
エレンを心配して一緒に戦おうとするミカサを怒鳴りつける程に。
通常であれば互いに分かっていたのだ。ミカサの言うことが無茶であることも、ミカサの言葉はエレンを心配していることも。ミカサがこれ以上身内を失うことの恐怖から、エレンの側にいたいと望んだことも。
だが、エレンにすれば、それは過保護に思えた。自分だって戦えると、母さんの敵を討つのだと。そして、ミカサは戦う力があるのに戦うことを放棄するのかと。
ミカサは不安で仕方がなかった。もう、嫌だった。目の前で大切な人を失うのは。側に居ながら、何も出来ず命が流れ出して、ただの骸になる様を見ているだけなのは嫌なのだ。
それでも、兵士だろうと言われれば、エレンに軽蔑されることには耐えられなくて。
戦えると思っていた。この三年、巨人を倒す為に厳しい訓練を積んできたのだ。もう、自分はあの日の無力な子供ではない。戦う兵士なのだと。
それなのに、仲間が次々と巨人に捕まり喰われていく。
立体機動の訓練成績は決して悪くないはずもの者達も、先輩であり正規兵である駐屯兵団の兵士達も、なす術もなく巨人に喰われていく。
表情があまり動かない、人類に似た巨人達が、まるで酒の肴を口にするかのように、その手で兵士を掴んで口に入れては咀嚼する。
訓練を積んだのだ。座学も、立体機動も、雨天行軍、馬術、およそ出来ることはすべてやった。
それなのに、巨人はそれをも凌駕する。
この時、エレンは気がついていない。
彼等の戦い方が、ひどく雑で稚拙だったことを。
もともと、訓練兵団での立体機動の訓練は、先攻を競うもので、複数での連携は弱い。また、その的も木の板で作られて動かない。
実際の巨人はサイズも様々であれば、動きも奇行種という予測困難な動きをする者もいる。
単独で巨人の項を削ぐには、かなりの技量がいるのだが、実際に巨人と戦った経験のある者は、ほとんど死んでいるか、調査兵団に属している為、効果的な反撃を組織して指揮出来る者がいなかった。
駐屯兵団にしても、普段は壁上からの迎撃で、進入した巨人の掃討戦など書面でしか確認していない。
いや、あり得ないと思っていた節すらある。
だから、指揮系統が乱れて混乱する。誰もが分かっているのは、死にたくないという思いと、ここを突破されれば後はウォール・ローゼが無防備に巨人達の前にさらされるという恐怖だけだ。
戦う意志がエレンにはあった。
だが、意志だけでは勝てないことを、エレンは知らなかった。
だから、アルミンを助けようと、自身が巨人に喰われる結果になった。これは、彼の驕りだ。戦える力があると、そう過信した結果だ。
巨人を倒す為には、小心者であるべきだったのだ。最悪の事態を想定して、打てる手はすべて打つ、そうでなければ、新兵ですらない未熟なエレンの手では巨人の項に届かないのだと、まだ素人に毛が生えた程度だったのだ。
差し伸ばした手が届かない絶望を、アルミンは初めて知った。
食いちぎられた腕、血の赤に染まった顔。
知っていたはずなのに、それでも、それが知識でしかないと思い知らされる。
どうしてと、何度も自問する。本来ならば、巨人に喰われるのは自分のはずなのに。
どうして自分が生き残り、エレンが喰われるのだ?間違っているだろう?
助けられなかった、恐怖に身が竦んで、巨人に剣を突き立てることすら出来なかった。
いっそ狂えたら、どれ程楽になれるだろう。
ミカサに詫びることしか出来ないアルミンに、ユミルが毒づいた。だが、それすらもアルミンには当然の言葉でしかなかった。
エレンが喰われたと聞けば、惑乱するかのように思えたミカサが、意外なことに落ち着いているのに周囲は驚いたが、実際は信じていなかったのだ。
また、自分が置いて逝かれたなどと。今度は自分が知らないうちに大切な『家族』を失ったなどと。
巨人に対する恐怖は、訓練兵以上に正規兵の方が深刻だった。
前衛はあっさりと崩れ、中衛すらも崩壊しつつある。
本来、彼等を援護・支援するはずの後衛と補給部隊が、巨人の恐怖に負けてしまう。
これ以上、兵力を失う訳にはいかないと、兵力分散は愚策だと自身に良い訳をして、壁の内側へ撤退してしまったのだ。
残された兵の内、中衛でも後方待機が主だった訓練兵がトロスト区に取り残された。オレ達には心臓を捧げよと、戦えと命じておきながら、自分達は命惜しさに逃げるのか。
ガスの補給もなしにどうやって戦えと言うんだ。
正規兵に見捨てられたという事実は、未熟な彼等を絶望に追いやるには十分だった。
ただ、無力感におそわれて、屋根の上で立ち尽くすかしない。
それでも、全員が諦めた訳でもなかった。生き残りたければ戦うしかないと、そう考えている者達もいた。
ガスが残っているうちに、動けるうちにと。
自分は強いから、巨人を駆逐出来ると言ったミカサ。
「あなた達は弱い」という台詞にカチンときた者もいたが、それでも続く言葉を聞けば、覚悟を決めろと言っているに等しく、また「ミカサにしたら頑張ってしゃべっているな」という感想になってしまう。
もともと、話すことが不得手なミカサは会話があまり続かない。なまじ、エレンやアルミンが言葉足らずなミカサを理解してしまうからだろう。
他の者達を必要としないミカサは余計に会話が不自由だった。
戦う意志のない者を顧みないエレンと、エレン以外はどうでも良いミカサは、もともと孤立してもおかしくなかった。
それでも、アルミンがいるから、二人は後ろを振り返り、アルミンを見ることで他にも人がいることを知る。
人には得手不得手があることも、補いあうことが出来ることも、アルミンを通じて二人は理解する。
生意気だと言いながら、青臭い正論だと悪態をつきながらも、エレンをジャンが軽蔑しないのは、彼が『正しい』ことを知っているからだ。そして、皆がお前のようになれないことを理解しろと言っていた。
それでも、巨人を前にすれば、エレンの言葉を思い出す。
どんなに怖いと思っていても、蹲ればただ死を待つしかない。虚勢でも何でも、戦う為に剣を取らなければ、自分達は餌として喰われるだけなのだ。
一か八か賭けるしかないと、立ち上がった一○四期のメンバーは、剣を握り直す。
そして、本部に向かって駆けだした。
このときのミカサはエレンの姿を追っていた。死んだはずがないと思いながら、彼が逝ったのなら早く追いつかなくては、一人残されるのは嫌だと。
だからこその無謀だったのだと、頭が冷えた後になって思う。
自分が皆を無茶な作戦に駆り立てておきながら、何を一人勝手に死ぬ気になっているのかと。
生き残る為に戦うのならともかく、死ぬために巨人に向かっていけば、間違いなくエレンは怒るだろう。
死に急ぎと言われたエレンだが、死ぬために戦うことはしなかった。あくまでも勝つために戦いを挑んだのだ。
巨人を殺しまくる奇行種の十五メートル級の巨人を誘導して本部を取り戻すと、作戦を立てたアルミンも、多分意識がどこか飛んでいたのだろう。
行き当たりばったりの出たとこ勝負、これ以上何をやっても今以上に状況が悪くなることはないという開き直りだ。
巨人に囲まれた本部に突っ込んだ訓練兵に、指示をくれる指揮官はいなかった。部屋に引きこもっている補給部隊をジャンは罵倒したが、正規兵が逃げてしまっているのだ。補給部隊に配置された訓練兵は特に立体機動での成績が低い者達だ。彼等に戦えというのは酷だと、分かっていた。それでも、なじらずにはいられなかった。
補給が届かないから、大幅に戦闘力が落ちたのだ。それこそ、死者のガスを取り上げなくてはならな程に。
とりあえず、巨人を殺す奇行種の巨人に外の連中を任せ、自分達は内部に進入した巨人を倒そうと言ったアルミンに、巨人を当てにするなどジャンを含めて正気かと疑ったが、とにかく何でもいいから行動するしかないと分かっていた。
正規兵が逃げ出している以上、訓練兵を指揮するのは同期しかいない。自然と成績上位の者達の集団指揮になる。
ミカサ、アニ、コニー、サシャは遊撃能力は高いが指揮能力は低い。
結局、ジャン、マルコ、ライナーの三人がアルミンの立てた作戦を元に団員を振り分ける。
この場合、やるだけやってみようという者、誰でも良いから指示を出して欲しい者、これで駄目ならどうにもならないと開き直った者、メンバーはそれぞれだが、それでも生きて脱出するという目的は一致していた。
出来ないことはやらなくて良い、出来る最善を尽くせ、それがアルミンが立てる作戦の基本だった。
どうにか作戦が上手くいって、内部にいた巨人を倒し、ガスを補充して脱出が出来る目処がたった時、アルミンはほっとした。
役立たずなままでは、自分が生きていることを許せそうになかったのだ。
役立たずなままでは、自分が生きていることをアルミン本人が許せそうになかったのだ。
巨人を倒す巨人を奇行種ととらえていた。
だが、その巨人が他の巨人に喰われているのを目の当たりにして、戸惑った。
巨人が巨人を殺す、いや、共食いなど聞いたことがない。
どういうことなのかと、いぶかしく見つめた視線の先、食い尽くされかけた奇行種の巨人が、それでも最後の力を振り絞るように咆吼をあげ、喰われて振り上げる拳がなくなっていたせいか、項をその口で噛みきったのは、仲間のトーマスを喰った巨人。
明らかに、敵を選別しているのに、アルミンは背筋が震えた。
いや、格闘の心得があるような戦い方に違和感を覚えていたのだ。
そして、蒸発する巨人の体躯から現れたのは、喰われたはずのエレン。
生きていたことかはもちろんだが、欠損したはずの手足が元に戻っていることが、泣きたくなるほど嬉しくて。
彼はこれからも戦えるのだと、何故かそのことが嬉しくてしかたがなかった。
ミカサもアルミンも、エレンが生き残っていたことが大事で、巨人化することの意味までは頭が回っていなかった。
その事実の危険性に気づいたのは、ジャン達だ。
エレンが巨人の身体から出て来たことは、どんなに箝口令をしいても広まる。そのとき、エレンの身の安全は保証されない。
巨人は人類の敵なのだ。その敵が内側にいるなど、絶対に中央は認めない。
生きていたと、喜ぶことは出来なかった。
自分が巨人になったのだと聞かされても、エレンにはよく分からなかった。その時の記憶が曖昧なのだ。
最後の記憶は、巨人の腹の中、血溜まりの中に沈んだ自分。
噛みきられた手足の激痛よりも、手首から先がなくなっていて剣を突き立てることも出来ないのが、たまらなく口惜しかった。
血溜まりに満たされた巨人の腹の中は、鉄鍋に入れられたような熱さと、ぷかぷかと浮かぶ死体。まだ死にきれない者の助けを求める弱々しい声。
自分は強くなったはずだ、この五年で戦う力を手に入れたはずだ、こんなところで死にたくない。死ねるはずがない、諦めてたまるか!巨人を駆逐していないのに!
どうして巨人化出来たのか、分からない。ただ、断片的な記憶が、巨人化する方法をエレンに教える。
戦えと、エレンを駆り立てる。
駐屯兵団にどう問われても、答えなどエレンの内側にはない。攻撃されるなら、防御するしかない。ミカサとアルミンを守る為なら、例え危険視されようともかまわない。
それでも、人類の敵になりたい訳じゃないのだ。自分の敵は巨人なのだから。
絶体絶命だった。それはエレンの死というのではなく、居場所という意味でだ。
砲撃を防ぐ為とはいえ、目の前で巨人化しかけたエレンを見る駐屯兵団の兵士達の目には恐怖しかない。
それでも、逃げる選択肢を最後の手段と、アルミンの説得に賭けたエレンの言葉に、アルミンは奮い立った。
今までずっと足手まといでしかないと思っていた。目の前でエレンを巨人に喰われるのをただ見ているしか出来なかったせいで余計にそう思った。
それでも、エレンは自分のことを信頼してくれているのだと、アルミンを臆病者とは思わず、背中を預ける存在に思っていたのだと。
ならば、自分は身命を賭しても彼の居場所を作る。彼が巨人と戦える場所を作ろうと。
ただ、現場指揮をとっていたキッツは、恐怖から考えることを放棄し、アルミンの説得にも耳を貸さない。
元々、この男が後衛の撤退を決めたせいで、自分達が窮地に陥ったというのに。それを戦略的撤退と言い抜ける小心者。
エレンが、巨人が目の前にいるかもしれないことが怖いのだ。自分の力では到底倒せない者が。
あの時、南方方面の責任者であるピクシスが間に合わなければ、エレンを含めて三人とも射殺命令にさらされていただろう。そして、エレンは無理に巨人化をしてでもミカサとアルミンを逃がす方法を選んだはずだ。
それを思えば、無謀ともいえるアルミンの言葉に耳を傾けてくれたピクシスに、どれだけ感謝してもしたりない。
その上、新兵として入団してもいないアルミンの作戦によるトロスト区奪還作戦。
ピクシスの配下の者達が作戦の修正を行ったとはいえ、おおむねアルミンが立てた作戦がそのまま通った形で、アルミンの方が驚いた。
本当にこんな期待の要素が強い、見通しの甘い作戦で良いのかと。
だが、覚悟を問われていたのはエレンだけではないのだと思った。巨人化したエレンはもちろん、その仲間と認識されている自分達も、その存在価値を示さなければ抹殺されかねないのだと。
巨人と正面から戦うのは愚策だと、トロスト区襲撃で思い知った。だからこそ極力戦わない方法で、アルミンは作戦を立てた。
いや、戦えないのだ。巨人の力を目にした者は、仲間が喰い殺されたのを目の当たりにした者は、巨人と戦えないのだ。
だが、ここで戦うことが出来なければ、人類は戦わずして敗北する。
愛する家族を、身内を巨人に喰われても良いなら、立ち去るが良いと言ったピクシスの言葉は、恐怖に負けかけた者達の足を止めた。
だが、人類の為にここで死んでくれと言った言葉は、偽りない本心だったろう。
巨人と戦って勝つことが出来ないなら、せめて死んで役に立てと。
岩を運んで穴をふさぐ。それは、巨人化してもエレンの自我が保っていられることが前提で、それすらもアルミンの希望でしかない。
実際、何とか巨人化しても、自我が保てず、ミカサを襲う行動に出た。
その為、作戦は失敗だと思われたが、すでに失敗は許されなかったのだ。何としても、穴を塞がなくては、二度目はない。
そう、精鋭班の指揮をとるイアンが、何度でもと言ったが、そんなことが許されるはずがない。これが、自分達に与えられた最初で最後の機会なのだ。
正気に戻れと、巨人化したエレンの項に剣を突き立てながら、アルミンが叫ぶ。
思い出せ、巨人化に負けるな、どうして調査兵団に入りたいと思ったのか、どうして変人と言われても壁の外に出たいと思ったのか、どうして戦うと決めたのか。
思い出せ、エレン。
その時、巨人の体内でエレンは幸せな夢を見ていた。幼い自分の前で、母とミカサが笑って料理を作っている。父がいつもの席で座って本を読んでいる。
あの日まで、それが日常だった。明日もずっと続くと思っていた日常だった。
それをアルミンの声が揺るがす。
違うだろう、と。エレン、自分から逃げるなと。
そして、思い出す。自分が何故、壁の外に出たいと思ったのか。
それは、自分がこの世界に生まれてきたからだ。何を成せるのか分からない。それでも、世界の果てまでも行きたいと願った。自分は巨人の餌になるために生まれて来たのではない。生きる為に生まれてきたのだと、その証を残すために生きているのだと。
母親の敵である巨人を駆逐して、いつか外の世界を見に行くのだ。
その為にも、シガンシナの実家に戻り、父が残した秘密を手に入れる。それは、人類が巨人に対抗出来る手段となるはずだから。
岩を持ち上げ運ぶエレンにかかる負荷は大きかった。意識を保ったままのせいか、それとも続けて巨人化したせいか四肢が痛む。
それでも、岩を担いで運ぶエレンは無防備で、巨人を退ける術がない。
エレンの周囲を、駐屯兵団の精鋭が守る。だが、その数はひどく少ない。
壁に向かう市街地から離れた場所では、立体機動をうまく使えない。
馬がない状況では、戦い方が限定されるだけ不利だ。それでも、彼等はエレンを壁まで誘導する為に囮になって巨人を引きつける。それしか、彼等のとれる手段がなかったのだ。
エレンの耳に、彼等が喰われる音が聞こえてくる。巨人を挑発する声、喰われる恐怖と悲鳴が。
それでも、彼等を助けることは出来ない。巨人に襲いかかりたくても、自分の役目は岩で穴を塞ぐこと。そのために、彼等は戦っている。
ここでそれを放棄すれば、彼等の死が無駄になる。歯を食いしばり、一歩一歩踏み出す。
穴に叩きつけるように岩をぶつけて塞げば、力が尽きたように意識が遠ざかった。
朦朧とした意識の中、目に映ったのは『自由の翼』を背にした憧れ続けた人の姿だった。
鳥の囀りと木々のざわめき。
柔らかな緑を透かして温かな木漏れ日が降り注ぐ。
石造りの砦は経た年月を残し、穏やかな午後を切り取ったかのような美しい光景……だったが、大きく羽ばたく鳥の羽音が辺りの空気を震わせた。
「何回言えば理解するんだ?この頭に詰まってるのは藁束か?あぁ?」
怒声とも罵声ともとれる台詞と同時にゲシッと背中を踏みつけられて、グェッと押しつぶれた呻き声がエレンの口から漏れる。
「この直進バカが!それで初陣の時も巨人に喰われたんだろうが!お前の記憶には『学習』って言葉がないのか?なぁ?」
ゲシゲシと容赦なく背中を踏まれ、ついでとばかりに後頭部を踏まれ、口の中に入ってくる枯れ葉や土を必死で吐き出す。
「まさかお前、いざとなれば巨人になれば戦えるとか巫山戯たこと考えていないだろうな?」
「……リヴァイ、足をどけてやらないと返事のしようがないよ?というか、息が出来ないから」
ギリギリの所で地面から顔面を浮かしていたエレンの頭をリヴァイの右足が踏みつけたせいで、エレンの顔が地面の枯れ葉の上にめり込んでいる。
苛立ち混じりのリヴァイを本気で止める気があるのか、いささか怪しいと感じるのは、ハンジの声がどこか笑いを含んで聞こえるせいだろうか。
「チッ」
舌打ちをしたリヴァイがようやくエレンの頭から足をどける。
エレンの制服はすっかり土と枯れ葉まみれで、背中にはくっきりと足形がいくつも残っている。
ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返すエレンの顔も土まみれで、ペッペッと口に入った土や枯れ葉を吐き出しながら、ようよう起き上がった。
「エレン、次同じことを言わせたら、その左腕落とすぞ」
「すみません!」
リヴァイの場合、台詞だけの脅しではなく、本気でやりそうなところが怖い。思わず直立の姿勢をとってしまうのは、もはや習慣というより条件反射だ。
「とにかく、最低でも十五分はもたせろ。それが出来なきゃ、荷物以下だ。食料は食えるがお前は食えないんだからな」
「はい!」
続けろと踵を返したリヴァイの背中を見送って、エレンは唇を噛む。
戦うなと言われた。巨人になれば戦えるなどと考えるな。
まずは、逃げる術を覚えろと。
今の所、巨人の頭と手足に見立てたリヴァイ班のメンバー三人を相手に、立体機動で逃げる訓練中なのだが、三分ともたずに補足される。
リヴァイ相手だと、まさに瞬殺される。
自分は巨人を駆逐したくて、壁外調査の調査兵団への入隊を希望したのに、今は逃げ回る訓練ばかり。
そのことが、ひどく歯痒い。
「エレン、誤解しないでね、リヴァイ兵長は何もあなたが憎くてあんなこと言ってる訳じゃないのよ」
エレンに気遣いの眼差しを向けてくるのは、同じリヴァイ班に所属しているペトラ・ラル。
どちらかと言うと言葉が少ない者達が多いリヴァイ班の中で、エレンの世話係というか、指導係に近い。
通常の新人ならば、集団で座学を受けるのだが、巨人化するエレンは一人隔離状態で、調査兵団の基礎知識をリヴァイ班の先輩達から教えられている。
もっとも、実践訓練になると、皆揃って容赦ないのだが。
「ペトラさん…わかってます」
「うん、エレンもね出来が悪い訳じゃないの。流石に一○四期の五位だけあると思う。でも、それは訓練兵の五位。生還率五割のうち、生き残れない方の部類」
ペトラの言葉に、エレンの顔が跳ね上がった。
「エレン、巨人は訓練の的とは違って自分の意思で動くの。直線で動くあなたの動線は読みやすい。三メートル級ならば何とかなるかもいれない。でも、十五メートル級の掌に飛び込んで、どうやって避ける気なの?」
言葉に詰まったエレンが悔しそうに唇を噛む。そんな少年を脱したばかりのエレンの表情を、ペトラ達リヴァイ班の者達は、複雑な気持ちで見つめる。
訓練を終えたばかりの新人が壁外調査に出た時、生還率は五割。それは、初めて巨人を見た彼等は居竦んでしまって戦えないからだ。
ただ自分の無力さに打ちのめされて、パニックになって、訓練の内容も忘れて逃げることも出来なくなる。
実際、トロスト区防衛戦の際、超大型巨人が現れた時、訓練兵だけでなく、駐屯兵団の者達すら動きが止まったという。
その中で、いち早く立ち直り、迎撃の指示を飛ばしたのは、ようやく訓練が終わったばかりのエレンだったと。
自分に巨人化する能力があることを知らず、その両手に二本の刃を持って巨人に向かっていったと。
母親が巨人に喰い殺された場面を見たせいか、彼は巨人を怖れる以上に根こそぎ倒すという意思が強い。
それが、彼の動きにも出る。そう、巨人に向かって飛ぼうとする。
それも、迷い無く真っ直ぐに。
「エレ~ン。駄目だよぉ。それじゃ巨人を倒すよりも先に捕まってしまうだろ?」
「ハンジさん」
幾分語尾を伸ばす口調のせいか、ハンジ・ゾエがしゃべると一気に緊張感が抜ける。
「まぁ、リヴァイのことは気にしなくて良いよ、午前中に憲兵団の連中とやりあって、ちょっと機嫌が悪いんだぁ、だからあれは八つ当たりもあるしね」
「ハンジ分隊長…」
フォローのつもりかもしれないが、それでは身も蓋もないと、ペトラは額を押さえる。
「新人の君にリヴァイの真似をしろ、とまでは言わないけどね。でも、緩急と曲線の動きはちゃんと盗んで。あいつはガスの噴出やアンカーの巻き上げだけでなく、体重の重心移動や遠心力を使って、加速と減速をするし、微妙に軸をずらして曲線の動きを細かくいれる。視線は前に、五感は全方位に。巨人の動きを先読みして、攻撃と撤退を見極めるんだ。それが出来ないと、一発で死ぬ。壁の外に出たら、身を隠す防壁はないんだよ。そこを解ってる?」
「ハンジ分隊長、リヴァイ兵長を手本にしないでください。普通、あの動きは真似出来ません」
実際、真似しようとして、出来るモノではない。小柄なリヴァイはその特性を最大限生かし、俊敏さだけでなく、円運動による加速と減速、急激な方向転換を可能として誰よりも自在に立体機動を操る。そして加速によって腕力以上の攻撃力を上乗せして巨人の肉を一太刀で削ぐ。
兵長の地位にいるが、部隊を指揮するよりも、遊撃の位置にいるのは、彼と同程度の技量を持つ者がおらず、連携が難しいからだ。
それを訓練を終えたばかりのエレンに真似出来れば、自分達の立つ瀬がない。
「そうだねぇ、でも、せめてペトラ達のレベルには追いつかないと、壁外調査にでられないよ?」
いや、エレンが出るのは既に決定事項だ。
五十七回壁外調査で、エレンが人類にとって有益であることを示さなくては、エレンの生きる居場所が無くなる。
「さて、自覚したなら、もう一度最初からやろうか」
口調はおっとりしているが、実際の内容が容赦ないのはハンジも同じだった。
「はい…」
幾分引き攣り気味の表情で、エレンは改めて訓練という名の命がけの鬼ごっこに挑む。