玻璃恋詩 兄弟×拓海
いつもなら通りの門は閉められ、許可証なしでは人など通らぬ時刻。
だが、今夜は元宵節。この三日間は夜行が許され、大街は光りと人によって埋め尽くされる。繊細な細工を施した灯籠や提灯がそこここに吊され、通りは見物客で賑わっている。
出店や諸芸の見せ物がより賑やかさに拍車をかける。
今夜ばかりは、衛士も外出の詰問など無粋な真似はしない。
人々がいささか浮かれる春の祭。まだまだ寒さがきついものの、風が柔らかな花の香を運び、春の到来が近いことを告げる。
裕福な家や商家は、それこそ趣向を凝らした飾り付けで 人々の目を引き、場所によっては見物客の人だかりができていた。
東街の一角は歓楽街で、いつも以上の賑わいを見せる。
寒い体を温めるため、自然と酒楼に人が集まるのは自然の道理。
酒楼ではどこの飾りが見物だと言いながら、その趣向と飾りで家々の財力・権勢を推し量る話が盛り上がる。
並ぶ酒楼の中では上の下、という辺りの楼で、いささか騒がしい物音。
「せっかくの気分を邪魔すんじゃねぇ」
「啓介、楼の中を壊すな。それでは人助けにならない」
不機嫌な声音で殴り倒した仁侠達を怒鳴りつける青年に、ため息一つついて背後から別の青年が声をかける。
「すまない楼主。これで」
背後の主人に銀をいくらか手渡し、丁寧に詫びる。
「助かります」
差し出された銀を受け取り、楼主は幾度も頭を下げた。
「大丈夫か?どこか怪我はないか?拓海」
頬に殴られた痕が残っているのを、気遣わしげに声をかける。仁侠に絡まれていた酒楼の子は、少年を脱したばかりな年若な青年だった。
「大丈夫です」
言葉少なに助けられた礼を言い、立ち上がる。
「それは良かった」
柔らかな微笑は春の日差しのように温かい。
その笑顔を向けられた青年の頬は一瞬で紅潮した。
二人とも着ているのは粗末な形だが、どこか貴人の微行を思わせる。暴れる酔客を追い払った男も荒い口調でありながら、仁侠のような暗さはなく、どこか品の良さがある。彼をなだめる男と言えば、周囲を圧倒する美貌だ。雑多な人混みの中にあっても、思わず人目を引くような華があった。
青年は一瞬、その見事な一対に目を奪われ、急いで頭を下げて礼を言った。
「本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
「アニキ、衛士がくるとやばいぜ」
「そうだな。それでは楼主、後のことはよろしく頼む」
一言そう言い置いて、二人は酒楼を出る。
そんな彼らを見送る青年は、ふと「百花の王」という言葉が浮かんだ。何を馬鹿なことをと思うが、最も富貴とされる牡丹の花が脳裏をよぎり、その花があの二人にとても似合っている気がする。
それは月の明るい春の宵だった。
庶民の見上げる九天。
各省の集まる皇城、皇帝の住まう太極宮、皇太子が住む東宮、妃女官三千人と呼ばれる後宮の掖庭宮…建物というより、皇帝とその周囲の世界を指して使われる言葉。彼らにとって天界と同じ意味を持つ程に遠く、想像の世界でしかない。
そして、後宮である掖庭宮に、なぜか男子の拓海が居る。
本来、去勢された宦官と皇帝を除いて男子禁制の後宮に、彼は女官として進宮した。
原因は、里長の娘、夏紀が後宮に入ると言い出したことに端を発している。
あの世間知らずのボケ娘、と拓海が毒づく。これがどれほどの大罪か理解せぬまま、女装させた拓海を女官として連れて、後宮に進宮したのだ。
何が悲しくて、と自分でも思う。
だが、無邪気な暴力と化した懇願を拒絶する術がなかったのだ。
里長の娘である彼女の頼みを断れる立場にいない。
年頃の娘らしく、宮中の暮らしに憧れを抱き、宮廷で暮らしたいのは彼女の勝手だ。
ただ、行くなら一人で行け、自分を巻き込むなと言いたい。
これもすべて新帝が悪い、と八つ当たり気味に拓海は握り拳を作る。
赤城五代皇帝、白帝。
二三歳で即位した彼は皇太子時代に北の碓氷を併合し、その武力で庶民には知られているが、宮中では学寮きっての秀才として有名な存在だ。
そして、この新帝は良くも悪くも前例・慣例を無視する。
臣下の意見も、聴きはするが従うとは限らず、結局自分のやりたいようにやるのである。
その一番最初にして、最たるものの一つが後宮の扱いにあった。
普通、新帝即位のとき、後宮に住まう女性たちも一度出され、改めて集められる。
一后・三夫人・九嬪・二七世婦・八一御妻は、およそ後宮の嬪妃の数の常識である。
ところが、新帝は「無理に集める必要もない。来たい者だけ後宮に入れ、実家に帰りたいと言い出した者は家に帰せ」と言い放った。
当然、伝統を重んじる老臣達は驚き、諫めたが、年若い新帝は取り合わない。
「三夫人・一夜は譲歩してもいいが、嬪から御妻の九人・十三夜は私に腎虚で早死にしろと言ってるのか?諸卿ら」
呆れた口調を隠しもせずそう問いかければ、老臣が恭しく慣例を口にする。
「それは、あくまでも規則上のこと。何も真実一晩でその通りにお召しになる必要はございません」
「だったら尚更、数ばかりおいても意味がなかろう」
「朝廷の対面がございます。陛下の花園が寂しければ、我が赤城の名にも傷が付きましょう」
「ほう、我が治世は実績ではなく、後宮の女の数で決まると申すか」
「いえ、決して」
慌てる臣下を冷ややかに眺めやり、
「嫌がる女に手を出すほど悪趣味でもないし、帰りたいと泣く女は鬱陶しい。後宮で暮らしたい者だけ住めばよい。もっとも、百人からの妃を平等に愛せる自信はないから、依怙贔屓が許せる女でなくては困るが」と微笑とともに言い放った。
結果、本来一度進宮した者は、そう簡単には出られないものなのに、白帝の後宮では手紙は勿論、里帰りも自由という前代未聞の状態になった。
そして、必然的に後宮に妃として入る女は「我こそは」という名家出身の女性が集まる。
それとは逆に街では進宮は行儀見習いと同義語と化し、半年から一年を後宮で過ごさせて家に戻し、改めて他家に嫁がせようという者が続出した。
無論、裕福な商家の親や、美貌に自信のある娘などは多少の打算もあるだろうが、三公の娘ですら賜る位は御妻の宝林がやっとでは、目に留まる以前に側に寄れない。
白帝の後宮は、華やかな宮中暮らしに憧れた娘達と、良い嫁ぎ先を探す親たちの花嫁修行の場となり果てた。
夏紀も華やかであろう後宮生活に憧れた娘の一人である。
絹の衣装に綺羅を纏い、幾多の女官に傅かれる生活を夢見て、九重の奥深く住む皇帝を間近で見たいという好奇心から進宮を望んだ。
しかし、しょせん商家の娘。
有力貴族の娘達は、親族の期待を一身背負って後宮にあがる。身につける物も吟味し、詩歌音曲にも長じた彼女たちが皇帝の側近くに控えている。
並み居る貴族の娘達が寵を競う後宮は見知らぬ人間ばかりであり、心細くもあって拓海に一緒に来て欲しいと言い出した。
宦官になれとでも言うつもりか、と呆れ半分冗談だと思っていたが、相手は本気だった。
なまじ、拓海の顔立ちが女顔なのと、体格が華奢なのが災いして、いつの間にやら側仕えの女官として新宮すことになっていた。
無茶だと何度も言ったのだが、今こうしてここに居ることを思えば、結果は分かりきっている。
夏紀の親はあらゆるツテを駆使して、どうにか夏紀に妃の末席・綵女の位をもらって新宮させた。
一応、綵女ならば妃なので、皇帝のお目見えがかなう訳だが、実際は皇帝の側は貴族階級の娘に固められ、末席の彼女は側近くに寄ることもできず、声をかけられる以前に皇帝の声を間近で聞いたことすらない。
彼が後宮に来たときは大抵、淑妃の沙雪と徳妃の真子の部屋にいるので、お呼びのかからない他の妃たちは、食事の場ぐらいでしか彼に会えないのも大きな原因である。
現在、白帝の後宮は皇妃が不在で夫人が二人、他は全て御妻という極端さ。
なので、自然、淑妃と徳妃の二人が後宮の女主人として采配することになる。
もっともそれで収まらないのが、名家の姫君達な訳で。
なんせ、二人を除いて皆が最下級の御妻の階級なのだから、ある意味完全な下克上が可能なため、寵争いは熾烈を極めている。
夏紀にしても、以前なら綵女といえど月二度は寝所にあがることも出来たのだろうが、 今皇帝はそう言ったことを廃止しているから、文字通り後宮で暮らしているだけである。
拓海といえば、いつも床に伏しているから、皇帝の顔をはっきりと見たことすらない。
ただ、彼女が頬を紅潮させて、陛下がこうだった、ああだった、と言うのを聞くだけである。
夏紀もある意味、皇帝の寵姫となるのは諦めたようだが、それでも華やかな後宮暮らしは捨てがたいらしく、しばらくはここで暮らすと言って拓海にため息をつかせている。
いつ男とばれるか、とヒヤヒヤしながらの暮らしは、一時も気が休まらない。
夏紀は楽しそうだが、慣れぬ女物を着ている自分には苦行以外の何ものでもない。
もっとも、あまり愛想は良くないが、余計な好奇心やうわさ話に興じることもなく、黙々と働く拓海は女官長にそれとなく気に入られていたりする。
拓海の後宮における作法知識のなさを、それとなくフォローしてくれていたりするわけで、拓海自身も女官長の梨花には、かなり感謝していた。
はっきり言って、彼女の助けがなかったら拓海は何回処罰を受けるか、数える気が失せるほどだ。
食事の片づけを終えて部屋に戻ろうとしたとき、女官達が慌てて走ってくる。
「陛下のお渡りです。お控えなさい」
渡殿でそう声をかけられ、急いで膝をつく。
しばらくすると、向こうから衣擦れの音と人のざわめきが聞こえてきた。
大勢の妃たちに囲まれながら、皇帝がやってくるのだとわかり、一層深く頭を下げる。
床に落とした視線の先、拓海の前でふと歩みを止めた足がある。
「その方、名は?」
「…」
涼やかな声が頭上から降り注ぐ。一瞬で集まる視線が痛い。
思わず固まってしまって、何も答えられない拓海に、再び声がかかる。
「名は何と言う?」
「陛下、この者は…」
「私は名を聞いている。女官長」
慌てた女官長の言葉を遮るように、皇帝は三度名を問うた。
「過日、進宮いたしました夏紀綵女がつれて参りました侍女にて、拓海と申します」
女官長の答えに皇帝は一つ頷き、その場から立ち去る。
水を打ったような静寂。
一瞬後、声を殺したざわめきが、周囲に広がっていく。
その中心にいる人物、拓海だけが呆然とした表情で硬直していた。
そして、横にいた女官長がため息を一つもらし、他の女官に合図する。
彼女たちに引きずられるように、拓海はその場から連れ去られた。
「とにかく、お湯を。あと香油も」
「爪の手入れはいかがしましょう」
「陛下をあまりお待たせするわけにもいかないし」
まごつく拓海にかまわず、後宮の女官達が身支度の準備を整え始める。
着ている物を強引に脱がされかけて、必死で抵抗するが、こういうことに慣れてる後宮の女官は拓海の抵抗を上手くかわして 剥いでしまう。
そして、目の前の人物が男だと知って、その場に沈黙が降りた。
真っ先に立ち直った女官長が、ガクガクと震える拓海をそのまま湯殿に連れて行く。
「あの…」
「詮議し、罰するのは妾の役目ではありません。陛下の御裁可が降りるまで、妾は何も申しません。今、妾のすべきことは、あなたの身支度を整え、陛下の御寝所にお連れすることです」
ことさら平静な声でそう言われて、拓海は青い顔で口を噤む。
男が女の身を偽って後宮に入る。刺客として拷問の上、斬首。そうなってもおかしくないのだと、今更のように気がついた。
薄暗い廊下を、逃げられぬように三人の女官が付き従って、拓海は皇帝の寝所に案内された。
広い部屋。拓海達の使う女官の部屋や、夏紀の部屋とは比べ物にならない程広く、寝台のみが置かれている皇帝の寝室。
背後で重い音を立てて扉が閉まった瞬間、拓海の膝は砕けて奥の人物に叩頭する。
カチカチと歯が音を立てる。何か言わなければいけないと思うのに、頭の中が真っ白で言葉がでてこない。
震える拓海に人が近づく気配がした。
そして、すぐ目の前で、その人物が床に膝をついてしゃがむ。
「久しぶり…かな」
わずかに苦笑を含んだ柔らかな声。
驚いて見上げた視線の先、見知った顔を見つけて拓海が息を飲む。
そっと拓海の口元を白い手で塞いで、その唇から言葉が零れないように止めた。
そして、ニコリと微笑んで拓海が落ち着いたのを見計らって、その体に腕を回して抱き上げた。
「あのっ」
慌てる拓海を皇帝が軽くいなす。
「このまましゃがんだ姿勢だと話にくいし、寒い。それに扉の近くで内緒話もしづらいから」
拓海を抱えて、そのまま寝台に向かい、彼を布団の中に押し込めると自分も上掛けをかぶる。
そして、額をつき合わせるような間近で、声を潜めて。
「驚いたよ。どこか似ているなとは思っていたけど、まさかこんな所に本人が居るとは思わなかった」
「別に好きで来た訳じゃないし、特に悪意があってのことじゃないですよ」
恐る恐るの拓海の口調に皇帝が笑う。
「解ってるよ。拓海が男なことは内緒にする。だから、拓海も皇帝が王宮を抜け出して、市内を出歩いているのは内緒にしてくれるか?」
悪戯っぽい口調でそう言われて、拓海もほっと息をつく。
「拓海は嘘をつくのは得意なほうか?」
「いえ、どちらかと言えば苦手です。でも、黙っているのは出来ますよ」
涼介の問いに拓海は正直に答える。相手をはぐらかしたり、言いくるめたりというような器用な真似は出来ないが、沈黙を守ることはできる。
拓海の返事に皇帝が思案するような表情を見せる。
「そうか…なら仕方ないな」
「えっ?」
ニコリと笑った涼介の笑顔を間近で見て、拓海は一瞬硬直する。
そして、思いの外逞しい彼の腕に押さえ込まれる。
「なっ…何ですか?!」
皇帝の行動に戸惑う拓海は、逃げるタイミングを逃した。
裾から手が忍び込んできて、膝を割り広げられる。器用に拓海の抵抗を封じると、そのまま細い指が拓海自身に絡んでくる。
拓海の拒絶も否定も、哀願の言葉すら無視されて、熱を煽られる。
初めて知る、自分以外の手淫に呆気ないほど極みへと運ばれて、拓海は泣き出した。
そんな拓海に皇帝は謝りながら、華奢な肢体に触れるのやめようとはしなかった。
ただ、感じさせられ、熱を煽られ、イかされることの繰り返し。
叫び声もいつしか嗚咽となり、か細い泣き声がこぼれ落ちる。
ようやく解放されると、敷布に顔を埋めて声を殺す。すぐ側で、涼介が起きあがる気配がするが、拓海は顔を上げることすら出来ない。
不意に、足に冷たい水滴が落ちて、顔を上げる。
すると、皇帝が側に置いてあった剣で二の腕辺りに小さく傷を作り、拓海の内股や敷布に血を落としている。
「何を?!」
彼の行動が判らなくて、拓海が困惑の声を上げる。
「ここの連中は目聡いからな。このぐらいの偽装はしないと、拓海が既に他の男と寝ていた淫売にされかねない」
「あの…」
「これ以上、無体な真似はしないから、安心して眠りなさい」
髪を優しく梳かれ、柔らかく微笑まれて、拓海は先ほどとは別の意味で顔を伏せた。
翌朝、拓海が起きた時には既に皇帝の姿はなく、幾分ほっとする。
そして、迎えにきた梨花に伴われ部屋を出た。
自分の部屋に戻る途中の廊下で、他の妃達に囲まれる。
「まったく、宮に響き渡るような声を上げるなど、はしたないこと」
「本当に学の無い者は閨の作法すら知らぬ」
一気に血が上って、うつむき加減の拓海の顔が真っ赤になる。
だが、周囲の女達は行く手を阻んで、聞こえよがしな嫌みを言い、抜け出せぬ拓海はその場で立ちつくしていた。
そこへ、いささか大きな声で呼びかけられる。
「あら皆様、新参者虐めとは見苦しいわよ」
眦つり上げた妃達の視線の先、華やかな二人が立っている。
「沙淑妃様、真徳妃様」
明るい髪と勝ち気な表情、朱塗りの唇も鮮やかな淑妃の沙雪。重たげな結い上げた豊かな黒髪、優しげな顔立ちにしっとりとした仕草の徳妃の真子。
現時点で後宮の最上位にあたる夫人に他の妃達も渋々ながら礼をとる。
「聞こえよがしな嫌味など、高貴な姫君達のする事ではないでしょうに」
「まあ、言いがかりですわ。私どもはただ、礼儀を教えていただけです」
「そうですわ。身の程も弁えず、愚かな夢を見ぬよう忠告していただけ」
袖で口元を隠し、軽やかな声でそう言い放つ女達を皮肉気に沙雪が見やった。
「そう、礼儀をね。だったらまず、その方に敬語を使いなさい」
「何を」
沙雪の言葉に女達が気色ばむ。
「その方は陛下より正式に美人の位を賜られました。実家の地位はともかく、この後宮に置いては皆様より上にあたります」
真子の静かな口調で語られる言葉の意味が分かった妃達は、顔色を変えた。
「美人は二十七世婦で正四品。あなた方は八一御妻の宝林でせいぜい正六品。いえ、正七品の女御の方もおいでだわね。範となるためにも、上位者に礼を取らねばならないわよねぇ」
青ざめた女達に対して、嫌味なほど丁寧な説明をする沙雪に、困ったようなため息を真子が漏らす。この好戦的な性格が災いして、いらぬ恨みを買っているのに、一向に改める気配がない。
「あの…」
話がよく見えない拓海が困惑の表情。
「これよりは藤美人と申し上げます。いくつか説明いたしますから、ついておいでなさいな」
真子が優しくそう言うと、二人がすっと踵を返す。
慌てたように拓海がその後に続く。
残された妃達は唇を噛みしめて、その後ろ姿を怨ずる瞳で睨んでいた。
真徳妃の部屋は色調も明るく、柔らかな雰囲気の部屋だった。
落ち着かせるように果実を絞って水で割った飲み物を拓海に差しだし、彼が半分ほど飲んだとき、話しかけた。
「あの、今更なことかも知れないのだけど、街に約束したというか、思いを交わした相手はいるのかしら?」
「えっ?別にそんな相手は居ないですけど、どういう…」
真子の質問の意図が分からなくて、拓海は首を傾げる。
「確かに、現皇帝の後宮はかなり出入り自由なのだけど、寵を受けた女人、まして部屋と位を賜った者となれば、そう簡単に後宮から出られないの」
「中書令の娘ですら御妻の位で、皇帝の寝所に侍ったことがないのに。陛下御自ら名指しして、寝所に侍った人間が、そう簡単に後宮を出られると困るのよ」
「そんな、オレ男なのに」
二人の言葉に思わず拓海が叫び、慌てて口を押さえる。
「拓海君。首が繋がっていたかったら、それを口にしてはダメよ」
「いくら白帝が常識知らずの型破りでも、限度があるんだから」
「えっ?!」
二人の返事に拓海が我に返る。
「あたし達は君が男の子だって知ってるわ。陛下から聞かされてるし、フォローも頼まれてるから」
「でも、他の妃達は知らないし、君が男だと知ったら、きっと声高に糾弾するわ」
混乱する拓海を宥めるように、二人が少し穏やかに言い諭す。
「あの…」
「少なくとも、今の白帝は君を断罪したり、宦官にしたいとは思ってないのよ」
もっとも、あの人の場合、純粋な100%の好意とは言い切れないのだけど。
「それだけは信じて良いわ」
なんせ、あたし達が他に女をつくれって部屋を追い出したのが、こうなった原因と言えば原因だしねぇ。
それぞれ口にできない言葉を胸の内で呟く。
「だけど、あの、オレが妃って」
俯いて真っ赤な顔で、しどろもどろの拓海に二人が苦笑する。
「正式に世婦である美人の位を賜った以上、妃だわ」
「部屋はね、ここ掖庭宮ではなく興慶宮の方に用意されてる。一応人目から隠せるように気を付けたらしいわね」
「興味本位の目と口がないぶん、此処で暮らすよりはいくらか過ごしやすいでしょう」
二人の優しげな言葉が拓海の頭にしみこむと、拓海の処遇は既に決定事項で、今更逃げようがないことを自覚した。
沙雪に導かれるまま、掖庭宮から太極宮、そこから大明宮へと移り、東側の城壁に沿って作られた、二階建ての夾城の上の通路を輿に乗せられて、興慶宮に渡る。
興慶宮の中の龍池へと案内され、呆気に取られた。
人工の池に人工の島。北斗七星に見立てた七つの島にはそれぞれ小さな宮を建てられている。宮毎に妃を置き、皇帝はどの島の妃のもとに行くかを決めて、船に乗るのだという。
「悪趣味」
ぼそっと呟いたのは拓海の本音。
すると、いつの間にか背後にいた人物が声をかける。
「悪かったな」
「皇帝陛下!」
振り返った先にその人を見て、拓海が叫ぶ。
あたふたと慌てる彼を皇帝はクスクス笑う。
「まあ、悪趣味なのは認めるが、これを建てたのは俺ではなく、父上なので、その台詞は父上に言ってくれ」
可笑しそうに笑う皇帝に、拓海が身の置き場がないかのように体を小さくする。
「手間をかけさせたな、沙雪」
「どういたしまして。掖庭宮の方はあたしたちで適当にしておくから」
「よろしく頼む」
拓海が知らぬ内に、話が付いているらしい二人の会話。
「それじゃ、拓海君。白帝に苛められたら言いに来なさいね」
「さっさと行け」
「わかったわよ」
拓海が引き留める暇もなく、沙雪は優雅な一礼をして掖庭宮に戻っていく。
「あの…」
「別に取って食いはしない。嫌がることは何もしないから安心しなさい」
後じさる拓海に皇帝は柔らかく笑いかける。
その笑顔に騙されて痛い目を見たんだと、内心思いながら、彼が差し出した手に引かれ、小型の龍船に乗る。
北斗一に当たる天枢の位置、その島に移る。
天枢の宮は、半年放って置いたとはいえ、十分小綺麗だった。部屋数は寝室を含めて三つ。
内の一つは侍女達の控えの部屋らしい。
あと、小さいながらも台所と風呂がついていて、一応『家』と呼べる設備が整っている。
皇帝が寵姫達と私的な時間を過ごすための宮なのだろう。
「とりあえず、ここを拓海にやるよ」
「えっ?」
「掖庭宮は女ばかりだから、彼女たちは気配に敏感だ。いずれお前が男だと気がつく者も出てくる。まして寵姫となればこぞって荒探しをするだろうし。ここならそんな輩がいないから、気楽にすごせるだろ」
「でも、あのっ…こんな立派な…」
「父上が亡くなられたとき、いっそ壊そうかと思っていた建物だ。壊す手間すら惜しくて、朽ちるに任せようかと考えていた宮だから、拓海が気にすることはない」
そういってニコリと微笑んだ。
その笑顔を間近で見ると拓海の頬は上気して、何も言えなくなってしまう。
宮一つ、簡単に拓海にやると言う当たり、やはりこの人は皇帝なのだと吐息をついた。
「別に、拓海のためだけと言う訳じゃない。一応、此方の理由もある」
吐息をついた拓海の思考を読んで、涼介が微笑する。
「どんな理由ですか?」
「個人的な空間が欲しいんだよ」
涼介の言葉に拓海が首を傾げる。皇帝は私室を持っていないのか?
「常に誰かが側に控えていて、俺の一挙手一投足に神経を尖らせている。誰と会ったのか、何を話したのか、皆が耳をそばだてているんだ」
そう言って苦笑を浮かべた。
「沙雪と真子の部屋は、まだましなんだが、あそこを追い出されると落ち着ける場所がない。寝所に至っては、入れ替わり立ち替わり、妃候補が忍んでくるから、おちおち寝ていられないし」
ため息とともに呟かれた皇帝の言葉に拓海は驚く。高貴な人間には、それなりに別の苦労があるらしい。
「だから、拓海にはこの宮を提供するし、男子であることばれても、処罰理由にならないように手を回す。そのかわりに、俺に好きに使える時間と場所をくれないか?」
優しげに尋ねられて、拓海は思わず頷いていた。
「ありがとう」
柔らかな笑顔とともに礼の言葉を言われて、思わず頬を赤らめる。本来なら、ここまで丁寧に対応する必要のない人なのに。それなのに、自分を気遣ってくれるのが嬉しい。
「皇帝陛下」
「涼介でいい」
「そんな、とんでもない!」
本来、名を呼ぶことが出来るのは明らかな目上だけ。通常は敬称か字で呼ぶ。名で呼ぶのは相手を一人前と認めていない証であり、見下すことと同義だ。
だからこそ、皇帝の名となると、文章に書くのさえ避けるのに。
「この天枢宮の中だけで良いから、そう呼んでくれ。もう、俺を名で呼んでくれる人間が居なくなってしまって。自分の名が『皇帝陛下』のような気がしてくる」
寂しげに笑う若い皇帝。既に両親も、近しい親族もいない寂寥からくる我が儘なのかと、拓海は頷いて、恐る恐る呼びかける。
「涼介さん」
「嬉しいよ、拓海。久しぶりにその名で呼ばれた」
本当に嬉しそうなその笑顔に、拓海もはにかむように笑った。
「一応、大抵の物はそろえているはずだが、足りない物があったら言ってくれ」
そう言って部屋を案内する涼介の後ろについていくが、寝室の大きな寝台を見て拓海が硬直する。
「あの…」
「何だ?拓海」
「オレ、どこで寝れば良いんでしょうか…」
「寝台で寝れば良いと思うが。それとも狭いか?」
外した涼介の返事に拓海が一層顔を赤らめる。
「そう言えば、今朝、宝林達に苛められたそうだな」
目元を紅く染めて誰のせいかと睨むが、涼介にくつくつと笑われてしまう。
「相手は何人だった?」
涼介に尋ねられ、今朝のことを思い返してみる。
「?…よく覚えてませんけど…八人だったかな」
「五人足りないな」
涼介の返事の意味が分からず、拓海が困惑の表情だ。
その様子に涼介が説明する。
「昨夜、寝所の様子を伺って、聞き耳を立てていた人間の数だよ。十三人だと思ったんだが」
涼介の言葉に拓海の顔が火を吹いたように真っ赤になった。
「それ、知ってて…わざと…」
震えながらの言葉に涼介が頷く。
「当然。わざと聞かせる為だったんだから」
「なんでですか、どうしてあんな真似!」
「拓海は嘘をつくのが上手くないように思えたからだよ」
「はぁ?!」
「拓海はあれこれ言い訳すると帰ってボロが出る質だろ。だからだよ。それらしいフリをしろと言っても無理そうだったし。だったら本気な分、現実味あるだろ。それに梨花のあたりに釘を刺しておかないと、不審人物がいると奏上されかねないし。それらしい痕跡があれば、拓海は皇帝の寵姫なんだから、下手なことは言わないだろ」
しれっとした涼介の台詞に返す言葉がない。
「まさか、毎日あんな目にあうんですか?」
「安心しろ、無理に最後までやらないから」
「冗談でもやめてください!」
拓海の形相に涼介が声を立てて笑う。
「まあ、取りあえず食事にしよう」
拓海にしたら有耶無耶にされては堪らないのだが、涼介は取りあえずそこで話を切り上げてしまう気らしく、侍女に膳を持ってくるように言いつけた。
卓の上に並べられた料理に拓海の目が丸くなる。
煮ただけの野菜、焼いただけの魚、炊いた稲飯。
はっきり言って、今まで自分が食べていた食事より素っ気ない。それが豪華な皿の上に盛られているのだから余計に違和感が拭えない。
「気にいらないか?」
「いえ、ただ皇帝陛下はもっと山海の珍味というか、豪華な食事をしているのだろうと想像していたから…」
もごもごとした拓海の言葉に、気を悪くした様子もなく、涼介は皿に野菜を取る。
「拓海が責任を持って食べるというなら、八種の珍味をそろえた饗応の膳を並べてやるぞ」
「えっ?!」
「そうだな…鍋物二品・椀物四品・大盃物四品・皿物六品・薄切り菜二品・菓子四品・おつまみ一卓・好みの料理含めて百種というところか。用意させようか?」
本気とも冗談ともつかぬ口調の涼介の言葉に、拓海がブンブンと首を横に振る。
「父上がご存命の頃は、皇帝の食事とはそういうものだったぞ。「お膳を伝えろ」の一言で御膳房から宦官数十人が大小七つのお膳と数十の小箱を捧げてくるんだ。まるで嫁入り道具の行列のような有様でな」
「だけど、残った御膳はどうするんですか?もしかして捨てるんですか?」
「いや。用意しろ、と言ってすぐ出てくるのはどうしてだと思う?」
「えっ?!」
涼介の思いがけない質問に、拓海が詰まる。
「前もって作りおきした物なんだよ。大半は火が通り過ぎて食べられないんだ。まして、箸を付けるのは精々十から二十だろ。何度も出したり引いたりするから、下手すれば三日前のとかがある」
「何なんですか、それ」
「百種といっても大半は並べて眺めるだけ。人力・物力・財力の浪費の最たる物だな皇帝の食事は」
眺めるだけ…そのためだけに、それだけの食材を使うのか?オレ達が毎日必死で働いてもほとんど口に出来ないような物が、そんな皇帝の自己満足で浪費されてるのか?
一瞬怒りが沸いた。しかし、同時に涼介の膳を不思議に思う。いくら何でも極端過ぎないのか、この食事は。拓海の視線に気がついたのか、涼介が箸を付けながら、拓海に説明する。
「これだと、作り置きされようが、冷めようが味にあまり変わりがない。スープですら煮詰まって飲めなときがあるんだ。味付けしてある物は想像つくだろ」
味に変わりがないというより、味がないというのではないだろうか。
拓海は口にいれた野菜煮を租借しながらそう思う。
「まあ、拓海は無理することはない。食べたい物があるならが御膳房に言えばいい。ただし、責任持って拓海一人で食べろよ」
涼介が少し戯けた口調で拓海に念を押す。その言葉に拓海は慌てて首を振った。
「良いです。これで十分です」
「苛めすぎたか?本当に気にしなくていいんだぞ」
「本当に、これで十分満足してます。お腹一杯食べれるなんて、オレにはこれ以上ない贅沢なんです。お代わりできるなんて、本当に今まで考えられないぐらいで。だから、全然気にしないでください」
「だったら、食べたいものができたら、そう言ってくれ」
「はい」
にこっと笑いながら、両手で白い飯を盛った椀を抱える。
涼介の少し砕けた口調で語られる皇帝の食事の話は、拓海の緊張を解そうとしてくれたのだろうか。
たわいもない話が何故か嬉しくて、どこかくすぐったかった。
多分、何があっても涼介が何とかしてくれるのだろう。はっきりとした根拠があるわけではなかったけれど、目の前の優しい瞳の彼を見ていると、自然とそう思えた。
「あの、どうしても駄目ですか」
「一応、寵姫だしな」
寝台の上、泣きそうな顔で拓海が涼介の顔を見上げている。
「痕跡がないとバレる。女官達の情報網は甘く見ない方が良い」
「そうかも、しれないですけど…」
まだ、グズグズと言う拓海の唇を己のそれで塞いでしまう。
「っん…どうして接吻なんて」
「紅を引いているのが悪い」
「紅?」
「そう。口づけたら拓海の紅は取れるし、俺には色が移る。朝、顔を見られたらそれが判るだろ?」
涼介の言葉に拓海が目元を紅く染めて瞳を潤ませる。そんな様子に涼介が喉の奥で低く笑う。
「口づけられるのが嫌なら、明日からは化粧をしないことだ」
そう言って拓海の項に軽く歯を立て、きつく吸い上げる。
その感覚に拓海が息を飲んだ。
「取りあえず、後は肩と鎖骨かな。拓海、何なら俺の背中に爪痕残してみるか?」
面白がるような涼介の台詞に、拓海は羞恥から固く目を閉じた。
結局、見えやすい首筋など、五カ所に涼介は所有印を刻んで、まともに彼の顔を見られない拓海は布団を引き被った。
そんな拓海の様子に涼介はクスクス笑い、「お休み」と声をかけた。
拓海が藤美人になった一日目はこうして終わる。
藤美人と呼ばれて返事が出来るほどに、拓海も天枢宮での暮らしにも慣れてきた。
朝、涼介と食事を取り、彼が出かけた後湯浴みをして着替える。
彼が帰ってくるまで、梨花が師となり拓海の妃教育が行われる。と言っても、庶民の出である拓海は初歩の初歩ということで、取りあえず女性教育の書である「女誡」の熟読と琴の練習である。
最初は男の自分がどうして「女誡」なのかと文句も言ったが、ならば四書五経の暗唱にしますか?と笑顔で問われ、「女誡」で十分ですと答えてしまった。今でも頭から漢字がこぼれそうなのに、四書五経全暗記など無理に決まっている。それこそ科挙に人生かけてる方々ですら難しいのに。そう愚痴を零しながら、一応まじめに復習している。
昼過ぎに涼介が宮に戻ってくるので、遅めの昼食を取る。この時は涼介が拓海の話し相手になってくれる。
しかし、食事が終わると涼介はすっかり拓海の存在を意識から追い出して、自分の世界に行ってしまう。
山と積んだ報告書や漢籍に意識が行ってしまって、拓海は置物と変わらなくなる。
邪魔するどころか、息するのにすら気を遣うような集中力で、拓海も大人しく勉強するか、台所あたりで用事をするかしか出来ない。
涼介が拓海を呼ぶのは「灯りをくれ」の一言だけと言う当たり、彼の態度が伺える。
ただ、時折練習がてらに、涼介が琴を弾くことがある。
その時は拓海も部屋の隅の方で、静かに聞いていた。自分も練習しているのだが、比べる方が図々しいような、綺麗な音色は拓海の最大の楽しみの一つである。
琴の演奏は嗜みだからと、さほど好きには見えないのだが、それでも思わず聞き惚れる。拓海から演奏をねだるようなことはしないが、毎晩「今夜は」と心待ちにしていたりする。
「涼介さん。夜食ここに置きますから、少しでも良いですから食べてくださいね」
「ん」
涼介の頼りない返事に拓海がため息を一つついて、寝室に向かう。
一体、いつ寝るのかと思うほど、涼介は毎晩遅くまで書類に埋もれている。報告書に目を通し、決済を行い、その合間に漢籍を読む。
拓海が側にいても何も出来ないし、返って邪魔になるから、やることがなくなれば寝室に引き上げる。
最初、夜食を作っても箸を付けた痕跡がなくて、酷く涼介を叱った。それこそ寝食忘れる涼介が心配だったから。
あれ以来、取りあえず椀一杯分ぐらいは食べてくれるようになっただけ、ましなのだろうが。それでも、灯りのともった部屋に涼介一人おいて、さっさと引き上げることに良心が痛む。自分は特に仕事もしてなくて、文字通り贅沢な居候生活をしている訳で。
本当に、こんな扱いしてもらって良いのかな。思わず首を傾げてしまう拓海だった。
三日ぶりに涼介が天枢宮に姿を見せた。
弟の黄皇太子が南の妙義を平定して凱旋したので、宮中を上げての祝宴が行われていたためだ。
訪れを告げる鈴の音が聞こえ、拓海が表に出ると、見慣れた顔がもう一人船に乗っていた。
「まずは噂に聞く、兄上を陥落させた美姫にお会いしようと」
そんな軽口を叩いていた青年は拓海の顔を見て、硬直した。
「拓海?まさか…」
「お久しぶりです。啓介さん」
小さく挨拶する拓海に、啓介が目を見開く。
「本当に拓海かよ。なんでお前がこんな所にいるんだ?」
「いろいろと事情がありまして」
「兎に角、中に入らないか二人とも」
涼介に言われて、慌てて宮の中に入る。
拓海の事情を聞いた啓介が呆れたような表情で、皇帝と妃の顔を交互に眺める。
「まあ、アニキが良ければ別にかまわねぇけど」
「だけど、驚きました。まさか啓介さんが皇太子殿下だとは」
「まあな。俺はアニキと違って剣を振るって軍を指揮するしか能がねぇから、宮中じゃすることないし。東宮は宦官が大勢詰めていて鬱陶しいんだよ」
周囲に人がいるのが煩わしいという当たり、兄弟だなと思う。
顔立ちは確かに似ていなくもない。ただ、柔らかな物腰に穏やかな口調の涼介と、躍動するような動きと伝法な口調が似合う啓介とは受ける印象が大きく違うのだ。
啓介は良く街で見かけた。涼介と連れだって歩くのは月に一、二度程か。拓海の働いていた楼に寄るとき、大興善寺に参った帰り、というのがいつもの理由だった。
一人でも十分目をひく容姿なのに、二人連れ立っていると、すれ違う人間のほとんどが振り返る。それほど目立つ二人連れだった。
確かに、時には無頼者に絡まれることもあったが、啓介はあっさりと彼らの間にとけ込んで、中産階級の若者達とよく酒を飲み、談笑しては賭博に興じていた。
そんな姿を知っているから、拓海も涼介に対するよりも、早々と砕けた対応をしている。
「啓介さんの分の食事も用意しますね」
そう言った拓海は、
「俺はパス。あれは人の食い物じゃねぇよ」
と啓介に返される。
「その台詞、必死で荷車おした駄賃に、ボロボロの豆しか貰えなかった子供にも言えます?」
「拓海?」
「言えるっていうなら、赤城の未来も先が見えましたね」
冷ややかな視線で睨まれながらの台詞に啓介が目を見張る。
「啓介、拓海は怒らせると恐い。特に食べ物を粗末にすると殴られるぞ」
「人聞きの悪い。一体いつオレが涼介さんに拳を上げましたか」
「『食べ物を粗末にするな』と言ったとき、拳が殴りたそうに震えていたが?」
「力説しただけです」
「そうだったか?」
「そうです」
真っ赤になって叫ぶ拓海に涼介が笑う。
「解ったから、食事の用意をしてくれ」
そう言われて、拓海が台所へ駆けていく。
「何、天下の白帝を捕まえて、意見したどころか、叱りつけたわけ、こいつ」
皿が並べられてる間、啓介が涼介に真顔で尋ねる。
「そう、眦つり上げて本気で怒るんだ」
可笑しそうに笑う涼介に拓海が拗ねる。
あの時は、仕事に熱中していた涼介が用意されていた食事をいらないと言った上、一二食抜いたぐらいで人間死なないと言ったからだ。
つい、本当に飢えたことがない人間の台詞だと怒った。
本気で怒ったのに、そんな拓海を涼介は声を立てて笑った。
そして、あれ以来、拓海の用意した夜食は取りあえず箸を付けてくれるようになった。
並べられた野菜の煮物と焼き魚に、啓介が諦めたようなため息を一つつく。
そして、野菜を口に運ぶと「味がする」と呟いた。
「何、これ?」
「鶏ガラと野菜クズで出汁を取って、それで煮直したんです」
「こっちの魚は?」
「香草でくるんで蒸しました。口に合いませんか?」
「いや、味があるのってアニキの料理で初めてだから。薄味だけど、今までのに比べれば断然旨い」
「良かった」
啓介の言葉に拓海がほっとしたような表情をする。
「もしかして、拓海が料理し直してるわけ?」
「食べたいものがあるなら遠慮なく言え、と言ったんだがな」
啓介の問いに涼介が苦笑する。
「兎に角、俺に何とか食べさせようとする」
「だって、涼介さん食が細いじゃないですか。ほっとくと、すぐに食事抜くし」
「一応、果物は食べてるぞ」
「『果物しか』食べないの間違いでしょ。ちゃんと穀類や肉も食べないと体壊します」
「拓海が用意してくれた物は、取りあえず口にしてるだろ」
「本当に自分のことに無頓着なんだから」
じゃれているような、言葉遊びのような二人の会話。
「仲が良いねぇ」
行儀悪く机に肘をついた格好で、二人の会話を聞きながら啓介がぼそっと言った。
「啓介さん?」
「天下の皇帝にそんな口叩けるのは、国中探してもいねぇだろうなぁ」
面白がる啓介に拓海が憮然とした表情になる。
「オレはただ、涼介さんの体を心配してるだけです」
「うん。そうなんだろうな。ここがアニキの気に入りの場所なの判るよ」
「そうですか?」
「ああ、この部屋は昔のアニキの部屋そのまんまだから」
そう言われて拓海はぐるりと見回す。
拓海が、藤美人が賜った宮というが、実際は涼介の私物が持ち込まれ、彼の私室でしかない。
本来、侍女が控えている部屋は書庫となり果て、居間は書斎と兼用。いずれ寝室も漢籍で埋まる気がする。
部屋の道具類も皇太子時代使っていた物を持ち込んでいるから、どう見ても女の部屋に見えないのだが、それすらも後宮の女達から見れば拓海への溺愛に映るらしい。
「昔からこんな部屋だったんですか?」
「ああ、そこら中に漢籍積んであったぜ」
素っ気なくて、それでもこれが『彼の部屋』なのかと判ると、此処が涼介にとって私的な空間に成り得ているのだと思えて嬉しい。
「そうですか」
そう言って、拓海がふわっと笑った。
「拓海、お代わりもらえるかな」
そう言って差し出された二つの椀を嬉しそうに拓海が受け取った。
「何するんですか、啓介さん!」
「何って、こんな痕付けておきながら、そういうこと言うわけ?」
「痕って、これは涼介さんの悪ふざけです!」
「ホント?」
啓介の言葉に涼介が苦笑しながら頷く。
「まだ、最後まではやってない」
「ふ~ん」
「判ったら離してください」
どうにか啓介を引き離そうともがく拓海の右足を担ぎ直し、ニッと人の悪い笑みを浮かべる。
「三人で寝ていて、二人の時より寝台が乱れてなかったら変だよなぁ」
「けっ啓介さん?」
「やっぱり、倍ぐらい痕がないとさ」
「やめてください、啓介さん。ちょっと…涼介さん」
往生際悪くジタバタもがく拓海の両手を涼介が押さえる。
さして力を込めている風でもないのだが、指を交差させるように絡められて、柔らかく寝台に押さえ込まれると、無理矢理引き剥がせなくなってしまうのだ。
ニコリと微笑んで、騒ぐ拓海の唇を塞いでしまう。
「んっ」
くぐもった声を漏らす拓海の体がビクリと跳ねる。
啓介が拓海の白い内股に紅い痕を残す。
そのまま唇が上へと辿ってきて、付け根辺り、場所を知らせるように軽く歯を立ててから、きつく吸い上げられ、不安定な拓海の足が宙を泳ぐ。
二人の悪戯に拓海がビクビクと体を震わせている最中、扉の向こうから声がかけられた。
「刻限でございます」
その声に拓海が何とか起きあがろうとするのだが、押さえ込む二人は一向に気にする気配がない。
三度、声をかけられて、なんの返事も返さないで居ると、相手も諦めたのか扉が開いた。
「刻限でございます。お支度を」
「梨花、妓楼のやり手ババアみたいな無粋な真似するなよ」
肩に担いだ細い拓海の足を撫でながら、そんな台詞をしれっと吐く。
「お二人揃って遅参すれば、百官に示しが尽きますまい」
「仕方ねぇか」
渋々といった様子でやっと啓介が拓海を解放する。したように見えたが、すかさず拓海の背後から抱きしめ、明るく涼介に尋ねる。
「なぁ、アニキ。凱旋祝いに藤美人を俺に下げ渡してくれねぇかな。こいつ気に入った」
「駄目だな。藤の花は俺のお気に入りでな」
「そこを何とか」
笑いを含んだやりとりをしながら、涼介が仕方ないとばかりに苦笑する。
「天枢への自由な出入りを許可しよう。来たいときに来ればいい」
「感謝。それじゃ藤美人、面倒な仕事はさっさと片づけて戻ってくるから、一緒に昼食、食べようぜ」
明るく笑う啓介に、真っ赤な顔の拓海は手近な枕を投げつけた。
「二人とも、さっさと行ってください!」
思わず顔色を変えた女官達の心配をよそに、皇帝も皇太子も楽しそうに笑う。
「それじゃ、いい子で待ってろよ」
「早く行けって言ってるだろ!」
そう怒鳴ると、拓海は夜具を被ってしまった。そんな拓海に二人は声を上げて笑う。
「急いでお支度を。でないと間に合いません」
梨花が完璧な礼を持って二人に再び告げた。
この日から、皇太子は仕事が終わると東宮ではなく、真っ直ぐ興慶宮に足を運ぶようになった。
政事が行われる大明宮の皇帝のもとに、妃が一人訪れを告げた。
「珍しいな。お前が此方に出向いてくるとは」
真徳妃の訪れに、周囲は驚く。彼女は掖庭宮を出たことはない。皇妃が必要な国家の祭事は沙淑妃が代理で勤めているため、彼女の不在を問う者もいなかった。
「掖庭宮でお待ちしていては、いつお越しになるか分かりませんもの。お二人にお話があります」
堅い表情の真子に、涼介が啓介を伴って庭の太液池の方へと促す。
部屋の中では、人払いしても宦官や女官たちが壁や扉越しに聞き耳を立てているから、外の方が却って安全なのだ。
「一体どういうおつもりですの?」
「どうとは」
「藤美人のことです。皇帝と皇太子、至天の二人を惑わす妖婦と、それこそ悪し様に噂されているのに、どうして放って置かれます!」
「白帝が酒色に溺れてるとか」
「皇太子が皇帝の寵姫に横恋慕してるとかっていう噂は無いわけ?」
二人の返事に真子がワナワナと震える。
「何故…あの子は嬉しいときに笑い、悲しければ泣いて、悔しければ怒る。当たり前のように生きて、死ぬのがふさわしい人間です。なのに、どうして醜い宮中の争いに巻き込むような真似をなさいますの?」
「随分な気に入りようだな、真子」
顔を歪める真子の表情を、涼介が冷ややかに見下ろした。
「…あの子は良い子です。素直で優しくて。皇帝の寵姫など似合う子ではありません」
「人は変わるものだよ。お前や、沙雪が白粉と紅で化粧し、絹が似合う女になったように、いずれあれも変わる」
「陛下…」
「動かぬ水は淀んで濁る。時には大きくかき回さないと」
唇に薄く微笑を刻んでの台詞に真子が顔色を変える。
「それで、あの子を利用して後宮の嬪妃の競争心を煽り、彼女たちが自滅するのを待つおつもりですか」
「後宮の住人はまだ多い。五分の一で十分だ」
「金も喰うしなぁ」
「戦費を減らせば、国庫に何の憂いもありますまい」
二人の言いように、真子は頬を紅潮させ、激しい口調で言い募る。
「碓氷を滅ぼし、妙義を平らげ、次はどこを攻めるおつもりですか!死者の白骨で青海を埋め尽くすまで、うち捨てられた亡者の怨嗟の声も、楸楸たる嘆きもお二人には届かぬと仰せですか!」
「生きていてさえ、我らを倒せなかった輩が、死して何ができる」
「死ねばただの土ケラとかわらねぇよ」
激した真子の言葉にすら、いささかも動じない二人の態度に細い肩が悄然と落ちた。
「皇帝である俺に、率直な意見を言うお前を好ましく思っている。しかし、いつもそれに好感を持つわけではない。あれに関しては聞く耳は持たない」
「生きてここを出るんだろ?そして花嫁衣装を着て、好きな男の所に嫁ぐのが夢なんだろ?」
告げられた言葉に真子が項垂れる。
自分には彼らを翻意させる力などないと知っているから。しかし、皇帝の寵姫が周囲からどんな扱いを受けるのか、知っているだけに拓海が痛ましかった。
あの子には此処の暮らしは似合わない…
力無く佇む真子を置いて、二人がその場を立ち去る。
しかし、いくらも歩かない内に、今度は沙雪が姿を現した。
「お前もか、沙雪」
呆れるような涼介の口調に沙雪が顔をしかめる。
「当たり前じゃない。拓海君は『好意には好意で返そう』って普通の子だもの。いくら何でも、利用するのは可哀相よ」
沙雪の台詞に、あからさまなため息を一つ。
「見返りを期待しない好意は、川底の砂金粒ほど稀だと知らないのが悪いと思うが」
「何故、親切にされるのか、何に頭を下げているのか、それに気がつかねぇ人間は、此処では生きていけない。今更だろ。沙雪」
いっそ不思議そうな顔をする二人に唇を噛む。
「だけど、別にあの子でなくても良いじゃない。宦官が処刑されるのも、高官が罷免されるのも、みんな藤美人の進言のせい?そして一年後、皇帝を甘言で惑わした罪で断罪されるの?全部あの子に罪を被せておいて、空涙でも流して詩でも読むわけ?」
「沙雪」
「他にも居るじゃない。権勢を望む妃なんて掖庭宮に掃いて捨てるほど」
「それだと、冗談ですまなくなるだろ。本当に外戚や宦官に出張られたら、アニキが改革始める前に赤城が崩れるぜ」
「だったら、法の下で裁けば良いじゃない。叩けば埃なんていくらでも出てくる輩でしょ」
思いの外食い下がる沙雪に涼介が嘆息する。
「沙雪、俺が彼らの罪を告発すれば、父上が無能だったと息子である俺が認め、公言することになる。まして、一族連座で断罪するには惜しい人間もいる」
「俺達には持ち駒が少ない。くだらないことで浪費する余裕はねぇ」
「あの子なら良いの?赤城の安泰のために捧げられる供物だとでもいうつもり?」
必死の形相で、二人を留めようとするが、そんなことで翻意するような相手でないと、沙雪自身が良く知っている。
それでも、なんとか思いとどまって欲しくて、縋らんばかりの表情で訴える。
「大を殺して小を取る真似は、俺には到底出来ないな。沙雪、自分は死にたくないし、真子にその役目を負わせるのも嫌なんだろ?だったら目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んでろ」
「あまり欲張るな。全てを望むと全て失うぜ」
しかし、いっそ爽やかな笑顔を浮かべながらの二人の台詞に沙雪が呻いた。
「どうして…どうして二人ともそんなに汚いの!」
高貴な血筋、優れた容姿、恵まれた体躯に明敏な頭脳。二人ともおよそ人から賞賛され羨まれる才能に恵まれながら、これほど神の恩寵を受けながら、どうしてこうも大切なモノが欠けているのか。
その美しい貌の下に人の情が流れていないのか?およそ、その外見に不釣り合いな程、内面が汚い。いっそ醜悪な容貌ならば良いものを、なぜそうも真っ直ぐな瞳で、柔らかな微笑で語れるのか。
握った拳を振るわせる沙雪を見やりながら
「俺達が腐敗した皇室の象徴だからだろ」
「見てくれは綺麗だが、蓋を開ければ汚濁と腐臭に満ちた世界であることは、お前もとっくに承知してると思ってたけどな」
清しい笑顔でそう告げると二人は踵を返し、振り返ることなく立ち去った。
力無く歩く沙雪は、庭先に項垂れて佇む真子を見つけた。そっと背後から抱きしめ、その華奢な肩口に顔を埋める。
「どうしよう、沙雪。このままじゃ拓海君が傾国の妖婦と罵られ、処断されるわ」
「…あたし達に出来る限り、あの子のこと庇ってあげよう。悪い噂があの子の耳に入らないように気を付けて。それぐらいしか出来ないもん」
「…そうだね。それぐらいしか、してあげられない」
-ごめん-
沙雪が詫びたのは拓海なのか、真子なのか。
卑怯なのはあたし。恥知らずなのはあたし。それでも…あたしは真子を失えない…
「ゴメン」
「どうしたの沙雪?」
「ゴメンネ」
くぐもった声で詫びる沙雪の髪を撫でながら、真子はきつく回される腕にそっと指を絡めた。
-ごめんね-
大明宮の一室。
人払いをし、念のため扉を開け放った続き間の奥の部屋。
兄弟揃って思案顔である。
「あの二人があそこまで拓海を気に入るとは予想外だったな」
「まあ、あの二人は世間並みに良心があって、人並みに身勝手だからな。そこが気に入ってるんだけどさ」
カリリと石榴に歯を立てながら啓介が楽しそうに言う。
行儀悪く手に付いた紅い果汁を舐める弟に、涼介が苦笑する。
「拓海は経済的にはともかく、愛されて育ったと判る子だ。そこが二人の気を引いたのだろう」
「アニキから、そんな言葉を聞くとは思わなかったな」
「いくら俺でも、それぐらいは判るさ。しかし、ここでは善意は踏みにじられ、好意は利用されると決まっている」
「そうだな…」
あの真っ直ぐな瞳をした子供は、俺達の本性を知ったらどんな顔をするのだろう。
沙雪のように責めるだろうか、真子のように嘆くだろうか、それとも絶望して泣くだろうか。どんな顔をするのか、見てみたい気もする。
初めは遠慮がちに怖ず怖ずとした態度だったが、今では平気で怒るわ拗ねるわで、二人に柔らかい笑顔を見せる。
綺麗な物を綺麗だと言い、悪いことを悪いといえる子供。
変わらない人間などいないと知りながら、奴らのように醜悪な存在になったら興味をなくすのだろうな、とどこかで思う。
「妙義の都督には史浩を当てる。遊牧民族の碓氷と違い、農耕が盛んな妙義は治める人間が必ず必要だ」
「良いんじゃねぇ?史浩なら、向こうの官吏も巧く仕えるだろうし、アニキの目が届かないからと小悪に走ることもねぇだろ」
「春になったら…」
「北の『伊呂波』攻めだな」
啓介の言葉に涼介が頷く。
「騎馬のみで五万の軍、春までに必ず揃えてやる。それで奴らを蹴散らしてこい」
「わかってるって。必ず勝利の報告をアニキのもとに届けてみせる。伊呂波が終われば次は西方諸国だろ」
「ああ」
屈託なく笑う啓介の言葉に涼介が俯く。
「すまない。お前にばかり押しつけて」
「皇帝親征なんて大がかりな真似出来ねぇよ。アニキが都に居ると思うから、俺は戦にいけるんだぜ?」
「しかし、お前の手ばかり血で染めさせて…」
「アニキの手が白いままで、俺の手だけが汚れてるわけじゃないの知ってるさ。水で洗えば落ちる汚れなんかじゃねぇだろ、俺達のは」
「そうだな」
啓介は腰掛けた涼介に腕を回し、肩に顎を乗せる。
「俺は小さい頃、アニキの国を守るのが夢だった。なのにこうして、アニキを手伝えるんだ。これ以上嬉しいことはない」
「ありがとう、啓介。これは俺の我が儘だ。それでも、お前に望んでしまう」
虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。
互いに皇室の生まれ故に、皇帝である父親と、寵を競う女達と権力に群がる輩の側近くに居た。だからこそ、皇族だからと、無為に生かされるのが嫌だった。
何も為さず、何も成せず、ただ時が過ぎるままに生きていることに耐えられなった。
自分一人で何もかもできると思い上がってる訳ではない。助けてくれる人間の必要性も知っている。
それでも、何のために皇室に生まれ、生きているのか、その意義を問わずに居られない。
「行こうぜ。行けるところまで」
「啓介」
「史書の片隅に諡名が明記される皇帝なんて、アニキに相応しくねぇよ。帝国最大の領土と豊かな時代を築いた希有な皇帝として、アニキの名が語られるんだ。アニキの死後、誰もそれを維持できないほどの国を俺達で築こう」
赤城の安泰など望んでいない。望むのは「涼介でなければ」と言われること。彼でなくてはどうにもならないと、そう言われる作品を作り上げること。
自分達が死んだ後、この国がどうなろうと知ったことではない。死後まで働かされてたまるものか。
「ああ。帝国最大の版図を築き、宮廷も諸悪を改め一新する。俺達なら必ずできる。外をお前が、内を俺が。二人なら出来ないことはない」
「俺は戦い続けて、勝ち続けてみせる。そして、大陸唯一の『覇王』の称号を必ずアニキに贈る」
絡めた指を強く握り、誓いの言葉を繰り返す。
体の奥に火が灯る。熱く、激しい業火の炎。この熱と乾きを癒すためには、前へ進み続けるしかない。安定など望まない。変革こそ自分たちの糧だから。
二人の幼い頃から変わらぬ飢えた瞳に映るのは、一生追い続けるだろう幻の都だった。
「お帰りなさい」
明るい声で拓海が二人を出迎える。
「ただいま」
「街の店で買ってきたんだ、一緒に喰おうぜ」
「涼介さん、香辛料は大丈夫ですか?」
「いらない、と言ったら拓海に叱られるからな」
クスクス笑う涼介に拓海が顔を顰める。
「平気なら、オレも使おうかな。その方がもう少し味に変化がつくし」
「食べれないとは言わないが、苦手なのは本当なんだから、天枢での味付けは今までと同じぐらいにしてくれ」
「拓海、あんまりアニキよ苛めるなよ。こんな姿を大明宮の大臣が見たら、卒倒するぜ」
「啓介さん、酷いです。オレは別に涼介さんを苛めてません。人を苛めて遊ぶのはお二人でしょ」
風が吹いた。
水面が泡立つほど、強い風。
どこかで花が散ったのか、甘い香が強く薫った。
「暇そうですね」
「まぁな。お茶はまだか、拓海」
「今挽いてます。まったく、その格好、宮中の人間に見せてやりたいよ」
「煩いこと言うなよ」
だらしなく胡牀に寝そべる啓介に悪態をつきながら、それでも団茶を臼で挽く。
この宮にはお茶をいれるための専用の釜が二つある。
なぜなら、兄弟で好みが違うからだ。
啓介は抹茶にネギ・生姜・ナツメ・蜜柑の皮・塩にハッカを入れて混ぜた物が茶だと言い、涼介は団茶以外の物を混ぜるなと言う。
どっちでも良いじゃないかと拓海が言えば、「茶経」とその道具二十四器を突きつけられて「良い火・良い水・良い葉で入れてこそ旨い茶なんだ」とにっこり微笑まれた。
料理用と分けたお茶専用のかまど。わざわざ南で汲んで取り寄せた水。
一番茶のみを使って花型に圧した団茶を崩して臼で挽き、釜に他の材料と放り込んで沸かしつつ、こういうところは二人とも皇族らしく、我が儘だと思う。
「うん、旨い。やっぱお茶にはハッカが入ってないとな」
「誉めても何も出ませんよ」
「可愛くねぇな。素直に喜べよ」
「ありがとうございます。黄殿下」
「うむ、大儀」
恭しい拓海の態度にわざと大仰に頷いて、二人声を上げて笑う。
「何だ来てたのか、啓介」
「ああ、邪魔してるぜ」
帯を解き、上着を脱ぎ出す涼介の側に拓海は慌てて近寄り、着替えを手伝う。
随分と身軽な格好、だらしないと侍従辺りが見たら顔色を変えそうな程の略装で、涼介もどさっと胡牀に腰掛ける。
「随分お疲れの様で」
「ったく、あのジジイども。さっさと隠居するか、父上を追って冥府で仕えればいいものを」
涼介の暴言に拓海は聞かぬ振りで新しい団茶を挽き始める。
「ありがとう」
新しい水で入れ直したお茶を受け取った涼介に笑顔で礼を言われ、拓海は一瞬詰まる。今更とは思うのだが、相変わらずこの笑顔には慣れない。
明るく雑談をかわす兄弟の少し後ろで控えながら、小さくため息をもらす。
できるなら、ここまでお近づきにはなりたくなかった。
宮中で、小冠をのせた正装の啓介は威風堂々とした煌めくような武人で、武官たちが最大の礼を取る存在。
涼介も即位して僅か半年だが、皇太子時代から英明であること誉れ高く、賢帝になること誰も疑わない存在だった。
当たり前のように綺羅を纏い、百官にかしずかれ、周囲を圧するその存在こそが貴種の血の証。そう思っていた二人だったのに、こうして普段の姿を見たらいっそ泣きたくなるほどだ。
街の仁侠かと思うような口調の啓介に、口調こそましだが、言うことはより一層過激な涼介。また、この兄弟は自分のことは、ほとんど構わない。
この姿をみたら、後宮の女は泣くだろうな。
そう思う反面、彼女たちに対して僅かな優越感も感じている。
「たまには他の方の元へも行かれませんか?」
「ほう、皇帝たるアニキを美人風情が追い出す訳?」
わざとらしい啓介の台詞に拓海が深くため息をもらす。
「何馬鹿なこと言ってるんです。オレがそんなんじゃないこと、啓介さんだって良く知ってるでしょう」
「藤美人が、今、白帝の寵愛が一番深い妃ってことは知ってるけど」
恨みがましげな視線で啓介を睨んだ。
「拓海はここに籠もっていれば良い。お前は美人なのだから、嬪妃は真子と沙雪以外は無視してかまわん」
言外に動く気がないことを告げる涼介に拓海の肩が落ちる。
「いい加減、諦めろよ。お前が無事に此処で暮らすためには妃でいるしかないんだから」
「そう言われても、何か落ち着かないんですよ」
「宦官になりたい訳じゃないだろ」
「当たり前じゃないですか」
「だったら、我慢しろよ」
何度目かの同じ会話を繰り返す二人に涼介が苦笑する。
「まあ、大人しくしてるんだな。皇帝の寵姫を捕まえて、男だという奴はまずいない。例え男と知っていても、疑っていてもな」
「ええ、そのことは良く知っています。ただ、朝の悪ふざけはやめてください」
貌を紅く染める拓海に二人はクスリと笑う。
「良いだろ別に。多少は俺達にも役得がないと」
「皇帝は不能だと噂が立つのは癪なんでな。それに痕跡がないと怪しまれるだろう」
「だからって、わざわざ女官達が起こしに来るのにあわせて、あんな真似しなくても」
語尾が小さくなる拓海を見上げながら、意地悪な微笑を浮かべた二人が言いくるめる。
「拓海が嘘をつくのが苦手なせいだろ」
「彼女たちの追求や質問を適当にかわせるならやらないよ」
「それに、夜よりは朝の方が良いだろ?夜だと邪魔がないから歯止め聞かなくなるかも知れないぜ?朝だと、否応なく邪魔されるし」
「彼女達の前の方が、拓海が何も言わなくても、どれほど俺達に閨で愛されてるか、勝手に話を作ってくれるしな」
二人の物言いにうっと詰まる。
そう、確かに自分は口べただ。適当な作り話をしてもきっとボロが出る。
しかし、毎朝、寝台で二人に押さえ込まれてる所を女官に見られるこちらの立場も考えて欲しい。
絶対、面白がってる。
夜衣をはだけられて、わざと紅い痕を肌に刻まれて…下手すれば口づけされてる最中に、遠慮がちに声をかけられるこっちの身にもなれよ。
あのあと、寝室に残される自分はどれだけ居たたまれないか。入浴を促されて、肌に残る痕跡に赤面する彼女たちの視線が、どれ程気恥ずかしいか。
絶対解っててやってるに違いないんだ。この人達は。
嬪妃たちは論外だが、拓海は女官達には好意的に扱われている。
身分の低い娘が、高貴な殿方に見初められて愛される、と言う話は彼女たちの永遠の憧れである。
拓海が男と知っていても、敢えてそのことは無視して「寵姫」「藤美人」を優先させる傾向が強い。
最初の頃に比べ、手入れの行き届いた肌は輝きをまし、指先も爪先まで手入れされ、髪は艶が出て光りに透ける。
皇帝・皇太子によって手中の玉の如く磨かれて、「寵姫」に相応しい姿になっていた。
そんな姿に憧れと夢を重ねて、彼女たちは拓海の幸せを願っている。
そう、どんな高貴な姫も及ばない「寵愛」が彼女達の真実。
そうでなくてはいけないのだ。
彼女たちの口から語られるとき、拓海は日ごと夜ごと皇帝と皇太子の寵を受けていることになっている。
そして、それは誇張されながら後宮はおろか、皇城にまで届いていた。
そのことを、拓海だけが知らない。
ニコニコと笑う二人の表情を見て、言うだけ無駄だと知る。
本当にこれさえなければ、それなりに尊敬できる人達なんだけどなぁ。
自分が持っていたイメージは確かに崩れたけれど、だからといって幻滅したわけではない。それ以上に惹かれたのだ。
陽気で、大らかで、道楽者だと言いながら、決して剣を手放さない根っからの武人の啓介。
大雑把なようで、物事の本質を捕らえる力を持った人。
眉目秀麗・頭脳明晰・才色兼備という熟語はこの人の為にあると思われる皇帝の涼介。
しかし、その実は誰よりも努力を惜しまない人だった。
寝る時間を削って報告に目を通し、漢籍を読み、琴をつま弾く。
二人とも現状に妥協せず、常に高見を目指し、完璧を求めて努力している。その姿が解るから、彼らに魅かれずにはいられない。
高貴な身分も、皇族の血筋も、豊かな財力も何も持っていなかったとしても、その華は決して隠しようがない。彼らは己の実力と魅力で人を惹き付け、地位を築いたに違いないと、そう思わせるものが確かにあった。
「本当に、たまには後宮の方にも顔を出してください。お二人を独占してると皆に恨まれます。せめて真子さんと沙雪さんの所に顔を出してください」
「気にしなくて良いぞ、あの二人は俺を追い出したんだら」
「あいつら、巨大な猫を背中で飼ってるからな」
二人の言いように拓海がむっとする。
時折ここを訪れる真子と沙雪には本当に良くしてもらっているから、冗談でも悪く言われると腹が立つ。
「拓海は知らないから」
「あの二人、碓氷攻めのとき、アニキの本隊に突っ込んできた青旗隊の指揮官だった女だぜ?」
「えっ?!」
クスクスと笑いながら、驚いて目を見開いている拓海を見やる。
「味方の退却を助けるため、決死の覚悟で攻め込んで来たよ。男物の服に髪はバサバサ、血と埃にまみれ、なりふり構わず必死の形相でな」
「綺麗だったぜ。あの時の二人以上に綺麗な女、ここにはいない」
懐かしむように、二人は目を細める。
「拓海は後宮の嬪妃達を綺麗だと思うか?」
涼介の問いに拓海は僅かに迷い、コクリと頷く。
「俺には皆、同じに見える」
「涼介さん?!」
「皇帝陛下の意に添うようにと教えられ、ただただ従順であれと育てられた深窓の姫君など、同じ顔をした人形に見える。彼女たちが口にするのは、背後の人間の言葉。聞いたこと、見たことは全て彼らに伝わる。そのくせ、白く細い指を持ち、自分が望んで叶わぬことがないと信じている。あれが妃などと、情けなくて涙も出ない」
吐き捨てるような涼介の言葉に、拓海が愕然とする。
「彼女達も、彼女の親族達も、俺が必要なんじゃない。皇帝の椅子がついてる俺が必要なんだ」
「俺も子供の頃は、誰にも見向きもされなかったぜ。俺が認識されるようになったのは軍功を立ててから、婿候補になったのは皇太子になってから。ここはそう言うところだ」
冷めた二人の言葉に拓海は俯く。
「そんな人間ばかりじゃないと思います。俺だって、二人とも格好いいと思うし、純粋に二人を好きな人間も居ると思います」
一生懸命に言葉を綴る拓海に二人が苦く笑う。
「拓海は優しいな」
「本当です。二人には人を惹き付ける『華』みたいなものあります。思わず目がいくというか、気になるというか。だから…」
「ありがとう」
「嬉しいよ」
上手く伝えられなくて拓海は一層俯く、そんな拓海の頭を二つの手が優しくかき混ぜた。
そうされて、ほっと息をついた拓海はニコッと二人に笑いかけた。
-いっそ、その羽を引きちぎってやろうか-
-のたうち回って、身も世もなく泣き叫ぶ程の絶望を味あわせてやりたい-
瞳の奥に暗い火が灯っていることに拓海は気がつかない。
「啓介」
「これは、皇帝陛下。わざわざお越しで」
「お前が呼んだのだろう」
呆れる口調の白帝に皇太子が笑う。
絹の紗を張った窓に、豪華な刺繍を施した帳、紫檀の調度。馥郁とした香木の細い煙が天井から吊された銀細工の薫球から流れている。
皇太子の住まう東宮の一室に訪れた涼介が、目の前の光景に苦笑い。
額に紅で描いた花鈿の赤さが目に付く美女が三十名あまり。
半数は楽人で、半数は舞人。その彼女たちが、ただ、一人の客のために華やかな遊芸を披露している。
「陛下に渡そうと思っていた品があって」
そう言いながら、側に置いてあった包みを差し出す。
包みを開くと、真っ直ぐな頚に、ゆるやかな梨型をした琵琶が出てきた。
「陛下には敵将の首より、こちらの方が良いかと思いまして」
螺鈿で花鳥を描いたその琵琶は五弦。最近、四弦の曲頚・梨型の琵琶が主流になりつつあるから、この型は珍しい。
「啓介…」
「気に入っていただけますか?」
「感謝する」
そう言って、少し照れくさいような、はにかむような笑顔を浮かべる白帝に、宴席に侍っていた女達が頬を染める。
そんな皇帝の様子に、皇太子も嬉しそうな笑顔を見せた。
「皆、下がれ」
「皇太子殿下?」
「陛下の琵琶の音を独り占めしたいから、お前達は下がれ」
色めきたつ女達に、啓介が悪戯っぽい笑顔で退席を命じる。
後ろ髪を引かれるように、渋々という風情で妓女達が部屋を出ると、兄弟の表情が一変した。
「よくまあ、毎日毎日、飽きねぇというか、懲りないというか。この皇太子の生活に耐えていたアニキは偉いと、しみじみ思ったね」
「お前の感想はどうなんだ?」
「『金にあかせた遊びだな』とは思うけど、それだけだな。拓海で遊ぶ方がよほど面白い。アニキはどうだったんだ?」
肩をすくめる弟の言葉に涼介は苦笑する。
「あまり、長続きしたことはないな。一通りは試してみたが、皆似たり寄ったりで。兎に角、『贅沢に。豪奢に』と考えるからか、人数ばかり多い気がする」
ただ一人、皇帝・皇太子のためだけに開かれる饗宴。花のように舞う芸妓、辞めよと命じられるまで奏で続ける楽人。
夢のように煌びやかで、実がない数々の遊び。思い出しても、心から楽しめたことなど、ただの一度もない。
「同感。だけど、あいつらも、もう少し趣向考える頭はねぇのかな。俺達の好み無視してる気がするぜ。親父とは性格が違うんだから、もう少し捻れって言いたい」
「彼らにしたら、皇帝は誰でも同じだろ。暗愚であれば良いのだから」
辟易とした様子の啓介の様子に、涼介が唇に微笑を刻む。
皇帝の息子は乳母の手を放れれば、宮の奥で宦官に育てられる。
彼ら宦官は自分たちの権力を維持するため、皇帝や妃達に取り入り、立場を強化する。
そして、先帝は宦官を重用し、その弊害を残した。
官吏の任命をはじめ、尚書房からの上奏文の取り次ぎ、その決済まで重要な国事の権限を彼らに与えた。
すでに、国事は皇帝の手を放れ、後宮の一角にすまう宦官のものとなっていた。
彼らは宰相に勝る権勢を誇り、賄賂で官吏の人事を動かし、己の利益で国璽を押した。
新帝・涼介が最初にしなくてはならなかったのは、彼らから政治の実権を取り戻すこと。本来、国璽を使えるのは皇帝ただ一人。そのことを改めて示すことだった。
皇太子時代、彼らに従順だった涼介が、彼らの手を拒み、己の体制を作り始めて宦官達は慌てだした。本来、皇帝の夜の生活を仕切ることで、奥の権力を持っていた彼らだが、白帝が寵愛したのは宮中に後見をもたぬ人間。
北の碓氷からきた真子と沙雪は宦官を嫌い、側には決して置かない。普通、妃やその親族達は皇帝の目に留まるよう、宦官に頼むものだが、彼女たちはそれを必要としない。
新しく寵愛されている藤美人は、宮中に後押しを頼んでくるような親族もなく、皇帝の命で興慶宮に住まい、宦官達との接触はない。
彼らは焦っていた。このままでは、自分たちが、ただの「使用人」になってしまうと。
誰もが頭を下げ、道を譲り、金銀が盆に積まれる暮らしに慣れていた彼らは、それを失うことを恐れた。
だからこそ、こうして啓介に遊興を勧める。
もともと、宮中を抜け出して悪所通いをしていた皇太子のこと、すぐに自分たちの持ち駒になると高を括っていた。
しかし、遊び慣れた啓介だから、宦官の勧める遊興にのめり込むことがない。表面上は楽しむフリもしているが、熱中することがなかった。
そして、兄弟は彼らの暴走を待っている。
降格や左遷などたやすいが、そのために目の届かないところで動かれる何かと面倒だ。処断してしまいたい。
無論、彼らがやろうと思えば、それも出来る。
鬱憤晴らしに宦官を叩き殺した皇帝も珍しくない。
しかし、無闇に血を流せば人心が萎縮することも判っている。
だからこそ、こじつけだろうが、なんだろうが理由が欲しかった。
たとえば、「藤美人の暗殺未遂」。そこまで行かなくても、彼らが「藤美人」を軽んじたり、侮辱する言葉を吐きさえすれば、それが口実になる。
色香に溺れたと言われようが、彼らの首を確実に落としたかった。
寵姫に溺れた者が、どれほど残酷なことが出来るか歴史が証明してる。
土壌を選び、さりげなく種を撒き、芽吹くのを兄弟は待っていた。
「それで、一体なんの用件で呼んだんだ」
調弦をしながら、涼介は啓介に尋ねる。
弟が、本当に琵琶を手渡すためだけに、わざわざ東宮へ自分を呼んだとは思えない。大明宮や拓海のいる興慶宮で話しにくいことがあったのだろうと、水を向けた。
涼介の前に啓介が一枚の布を差し出す。
その布に書き付けられた、柔らかな筆跡は梨花のもの。
その文面に目を通しながら、涼介は手にした撥を返した。特に何も考えず、即興で曲を奏でながら、より近く弟の側に身を寄せる。
豊かな琵琶の音で会話の音をかき消しながら、顔を寄せ合うようにして、涼介が問う。
「一体、この女は何が言いたいんだ?男である拓海を連れてきたのは自分の罪だから、拓海を処罰するなと言いたいのか、拓海は自分に懸想しているから彼を遠ざけて自分を守って欲しいといってるのか、どっちなんだ?」
訝しげな顔の涼介に啓介が肩をすくめる。
「男である拓海が、俺達に寵愛されて高位にいるのが許せない。自分を好きだったはずの人間が他人に取られるのが許せない。要約すれば、今まで優越感を感じていた目下の相手が、自分の上に立つのが許せないんだろ。この夏紀って女は」
啓介の言葉に、涼介が呆れたような表情を浮かべる。
「そうなのか?」
「多分、嫉妬っていうのが一番近いと思うぜ」
啓介の言葉に、涼介がふむと考え込む。
「確か、彼女の親・茂木は太傅の出入り商だったな」
「ああ、偉太傅の口添えで、かなり羽振りが良いな。後宮では娘の朱宝林が夏綵女の後見になってる…何、考えてるんだよアニキ?」
「遊びを一つ」
涼介の言葉に、啓介もニッと笑う。
一度、石を投げてみるか。どんな水紋か試してみるのも悪くない。
おずおずと緊張した足取りで、夏紀が廊下を進む。
女官長・梨花よりの伝言。
-皇太子殿下からの命で、酒杯を東宮までお運びいただきたい-
赤い葡萄の酒に玻璃の高杯を盆に乗せ、掖庭宮から東宮へと。
ある種の期待がないと言えば嘘になる。
しかし、そんな自分を戒めながら、間近で皇太子に会えるかも知れない期待は隠しようもない。
声すら聞けない至天の存在。その人に会える。
東宮につくと、案内されるまま私室へと向かう。
長窓が開き、薄暗い室内に皇太子がいた。
はだけた夜衣から、引き締まった体躯が伺え、夏紀は慌てて視点を床に落とした。
「使い立ててすまないな。こっちに運んでくれ」
彼が向かう部屋が寝室とわかり、夏紀が顔を赤らめる。
「あの…」
「俺にその酒盆を運ばせる気か?」
唇を僅かにつり上げて、意地の悪い微笑とともに告げられた台詞。一層、頬を赤く染めて俯いたまま、ぎこちない足取りで彼の後に続いた。
「アニキ、酒がきたぜ」
「ああ、注いでくれ」
皇太子の台詞に夏紀が硬直する。
ここに皇帝陛下もいるのだと、そう理解すると、床に跪き、視線を上げることすら出来ず、震える手で寝台にいる皇帝に、杯を差し出した。
「お前も飲むか?」
頭上の台詞に夏紀がビクっと肩を振るわせた、が続く台詞に訝しく怖ず怖ずと視線を上げる。
「果実酒は好きだろう」
そう告げた相手は自分でなく、腕の中にいる人物に向けてだった。
赤い酒を口移しで飲ませている相手。華奢な身体は皇帝の腕の中に大人しく収まり、皇 帝は唇の端から僅かにこぼれる赤い滴を舐め取りながら、項に唇を寄せる。
纏う物のない上半身には、花びらのような所有印が刻まれ、しどけなく開かれた足が、乱れた裾からあらわになる。
「ふ~ん。気に入ってるのか。だったら、もっと飲ませてやるよ」
そう告げた皇太子が、皇帝の腕の中にいる人物を俯せに返し、腰を持ち上げてその秘奥に唇を寄せる。
「ほら、零すなよ。もったいないだろ」
からかう口調で、玻璃の杯に満ちていた赤い酒を全て、口に含んではその双丘の奥へと注ぎこむ。
濡れた喘ぎ声を零しながら、白い指が皇帝の肩にすがる。舌を差しだし、口づけをねだるような仕草で、焦点を失った瞳が情欲に潤む。
その貌を満足げに眺めて、皇帝が舌を絡めて深く口づける。
丸窓から禍々しいほど赤い月の光りが、部屋を照らしだす。
その光景を、夏紀は視線を逸らすことすら出来ずに見入っていた。
「そなた、面白いことを言っていたな」
不意にかけられた言葉に夏紀が正気に戻り、頬を赤らめて慌てて視線を落とす。
「この藤美人が、豆腐屋の息子だと」
「それは…」
「そのような者がどこにいる?確かに拓海という同じ名前らしいが」
「『藤の花』は俺達お気に入りの寵姫なんだよ。馬鹿なことは言うものじゃない」
「これを侮辱するようなことを口にすれば、処罰しなければならなくなるな」
柔らかな物言いだが、その言葉に夏紀は反射的に顔を上げた。
その視界に映るのは、二人に愛されてる華奢な白い肢体。
腰紐でかろうじて絡んでいる衣。全裸でないぶん余計淫靡で、白い内股を伝う残滓が彼らの行為を容易く想像させる。
嬌声を上げて反り返る背中に汗がつたう。
目の前にいる人間は誰?ぶっきらぼうで、大人しそうに見えて、気が強くて、喧嘩も強くて。照れたように視線を逸らして話す彼。「仕方ないな」と言いながら、それでもいつもあたしの言うことを聞いてくれた。こんなのあたしが知ってる拓海君じゃない!
カクカクと小さく震える夏紀に見せつけるように、皇帝が深く口づけ、皇太子が肩に歯を立てる。
「二度と、馬鹿なことは言うな」
静かな皇帝の命に、ヨロヨロと立ち上がった夏紀が、皇太子の寝室を出ていく。
その後ろ姿が、長窓の向こうに消えたとき、二人が喉を振るわせるように笑いだした。
「どうする拓海?これでお前は侍女に戻って此処を出ることはできないよ」
「もう、二度と彼女はお前を助けてはくれねぇだろうな」
彼に聞こえていないと知りながら、誰も映さない焦点を失った瞳に、楽しそうな笑い声と共に語りかける。
「さて、彼女がここを出ていくかどうか、賭けるかアニキ?」
「それでは賭けにならないだろ」
寝台の側に置いた香炉で炊いたのは、宮中でよく使われる眠り草。
その煙を吸うと、意識が朦朧として、感覚が鈍くなり、ぼうっとして現実感が乏しくなる。
大量に吸うと副作用も大きいが、少量だとさほど害のない麻薬の一種である。慣れた者ならともかく、免疫がない人間への影響は絶対だった。
その煙を吸った拓海は、文字通り人形のように二人の意のままに動く。
自我のない瞳は気に入らないが、二人は丹念に拓海の体に快楽の種を植え付けた。上手く根付けば、それはそれで面白い。そう思ってのこと。
さて、石は投げた。あとはどんな水紋が広がるか。
いや、広げようか…
二人ともクスクスと笑いながら、大切そうに華奢な肢体を抱きしめた。
ぼうっとした意識のまま、ぐるりと部屋を見回す。
「気がついたか。拓海」
「涼介さん?!」
「お前ぐらいだぞ。皇帝に看病させるなんて」
「啓介さん?」
苦笑して覗き込む二人の顔に拓海が慌てる。
「あの、オレ…」
「熱だして倒れたんだよ、お前」
「気分はどうだ?」
涼介の問いに、拓海が申し訳なさそうに顔を布団から覗かせる。
「悪くないです。ただ、体がだるくて、ギシギシいうような…」
「結構、熱が高くて、三日ほど寝込んだからな。食べれるか?」
そう言って差し出される粥をゆっくりと匙で口に運ぶ。
「どうだ?」
「美味しいです」
「食欲が出てきたなら大丈夫だな」
ほっとした表情の二人に拓海が申し訳なさそうに謝る。
「気にしなくて良い。慣れない生活で無理して、疲れたせいだろう」
そういって微笑む涼介に、拓海は再び頭を下げる。
「病み上がりにこんな話で申し訳ないのだが…」
「何ですか、涼介さん?」
「綵女の夏紀って女が、後宮を辞して実家に帰るそうだ」
「夏紀が?本当ですか啓介さん」
「ああ」
拓海の問いかけに涼介も頷いて肯定する。
「どうする、見送るか?」
「餞別に適当な品を選んで贈ってもいいぜ」
「ここから、出ても良いんですか?」
「せめて、見送りぐらいはしたいだろ」
「別に無理強いする訳じゃないけどな」
二人の気遣うような言葉に拓海は「ありがとうございます」と呟いて、見送らせて欲しいと頼んだ。
自分はまだここを出られない。白帝の治世が落ち着いて軌道に乗るまで、あと数年は辛抱してくれ、と二人に頼まれた。
だから、夏紀には親父や友人達への伝言を頼みたかった。自分のことは心配いらないと、そう伝えて欲しかった。
「あの…本当にこんな格好しなきゃ駄目なんですか?」
「いつもの格好で出られると、俺が甲斐性なしのように思われるからな」
そう言われて拓海はため息を漏らす。
豪奢な絹、重ねる紗、結い上げた髪に挿した櫛、揺れる簪。たかが見送るだけに、一体何事かと思うほど豪華な正装に拓海は辟易とする。
それでも、掖庭宮で控えて居る夏紀とそのほか十名ほどの女の所に出るときは、努めて女らしく振る舞っていた。
周囲の刺すような視線が痛い。皇帝と皇太子の二人が大切に扱う様に、嫉妬しているのがありありと伺える。
「実家にお帰りになるそうですね。見知った顔が居なくなるのは、寂しく思います。餞別というのも何ですが、せめてものお礼です。受け取っていただけますか?」
おずおずとした口調で、ぎこちなく微笑むと、夏紀に向かって品を示す。
それは絹布十反、玉、金銀細工の装飾品。
床に跪いていた夏紀の目に映ったのは、柔らかな袖から覗く、指先まで手入れされ、染められた爪。
見上げると、上質の白粉と紅で化粧された小作りな顔。細い項になだらかな肩。自分に贈られた品より数段上質と判る簪を刺し、豪奢な衣装を纏い、自分を跪かせて当然のように上段に立つ姿。
そして、脳裏に焼き付いている、閨での淫靡な姿が浮かんだとき、夏紀の中で何かが切れた。
パシンと固い音がなり、耳障りな金属音が床に響く。
「その者を捕らえろ。皇帝弑逆を計った愚か者だ」
啓介の凛とした声が止まっていた時を動かした。
拓海の手の扇が、夏紀の持っていた短剣をはじき飛ばしていた。
「驚いたな、拓海に扇武の心得があるとは」
小さい皇帝の呟きは、すぐ側にいた皇太子の耳にしか届かなかったが、彼もまた小さく頷いた。
皇帝の御前では剣を所持するすことは許されないから、変わりに発達した武道の一つが扇武である。もっとも、最近はかなり形式化して、武道というより舞踊に近くなっている傾向があった。だが、今目の前で起こったのは、広がった扇も鮮やかな、舞にも似た流れるような動き、間違いなく扇武である。
「待って、啓介さん」
拓海の言葉に周囲にいた人間が顔色を変える。
皇太子を名で呼ぶなど、考えられぬ不敬である。なのに、皇太子はそれを咎めようとはしない。
「藤美人、陛下の御前で剣を抜くこと自体、罰っせられるのに十分な理由だ」
「彼女は別に涼介さんを殺そうとした訳じゃないよ。彼女は…」
「皇帝の寵姫を殺そうとしたのでも、十分だ」
「涼介さん!」
必死な拓海は気がつかない。二人の名を口にすることの重大さ、それを許している二人の態度の意味。
「助けてよ。お願いだから!」
「藤美人、私事で法を曲げれば、国の基が崩れる」
「彼女は何も誰かを傷つけようとした訳じゃない。ただ、餞別の返礼に剣舞を披露しようとしたのを、オレが誤解して。ただ、それだけだよ」
言い訳というにはあまりにも苦しい。それでも、すがる瞳で拓海は二人を見上げる。
そんな拓海に、二人が仕方ないと諦めのため息。その様子に期待した表情の拓海を壇上に呼ぶ。
側近く呼び寄せて、涼介が小声で話す。
「拓海、彼女を助けたら何をくれる?」
「ここに居る連中に箝口令をしいて、皇城の連中を言いくるめて、その結果得られるのは『寵姫に溺れた』の陰口では割に合わないな」
啓介の言い分に、拓海がうっと詰まる。一言、彼らが無罪放免といえば、それは成る。
しかし、それが好意的に解釈されるわけではないのも事実な訳で。
「拓海が俺達の寵姫になって、俺か啓介のどちらかが死ぬまでここで暮らすなら、彼女を助けても良い」
「冥府まで仕えろとは言わねぇけど、生きてる間は俺達に仕えるか?」
拓海が初めて見る、唇の端をつり上げた微笑。彼女を死なせたくないなら、拓海に選択の余地などない。
こくりと頷く、拓海に満足そうに笑って、涼介が抱き上げた。
「涼介さん?!」
「『おねだり』は閨でするものと相場が決まっている」
「夏紀の処置は一時保留だ。部屋に押し込めとけ」
楽しげな二人の台詞に、周囲の者達がざわめく。
「上手く『おねだり』できたら、あの女助けてやるよ」
「俺も口添えして、ジジイ達に頭下げてやる」
そう言って、三人は天枢宮へと戻っていった。
残された人々は、ただ呆然とその姿を見送った。
そして、泣き伏した夏紀の嗚咽だけが、その場に細く響いていた。
天枢宮に戻る途中、二人がひどく楽しげな様子に拓海は困惑の表情を浮かべる。
彼らが一体何を考え、何がそんなに楽しいのか、拓海には解らなかった。
夏紀の件も周囲の者もすべて放り出し、一体どんな処遇になるのかさえ、教えてもくれず、ただ、拓海の手を取って宮へと戻る。
いつも通り、船で宮に戻ると、拓海は引きずられるように奥の寝室へと運ばれる。
オドオドと戸惑いの眼差しで見上げる拓海に、二人が笑う。
ただ、その笑みが何故かひどく恐ろしく、冷たいものに見えた。
今までとは、明らかに違う印象。
それは、口元だけをつり上げた微笑のせい。
綺麗だけど、ただそれだけの笑みに、拓海の体が無意識に固くなる。
拓海が知るのは、和む眼差しをした涼介の微笑と、悪戯っぽい色が浮かぶ、屈託ない啓介の笑顔。なのに、このひどくよそよそしい微笑は何なのだろう。
まごついている拓海の内心を知りながら、二人は無造作に着ている物を床に脱ぎ落とす。
「拓海も脱いで、寝台にあがれよ」
「それとも、俺達に脱がせて欲しいか?」
二人の言葉は解っても、その意味を知りたくない拓海は、その場で立ち竦む。
はっきりと顔色を変えた拓海に、兄弟がいっそう深い微笑を浮かべて近づくと、その手を取った。
そして、混乱している拓海の帯を手際よく啓介がほどき、涼介がその肩から上着を落とす。シュルと絹の衣擦れの音が拓海の耳に届いて、初めて華奢な肢体は抵抗を始めた。
そんな拓海の様子に、クスクスと声を立てて二人が笑う。
制止の言葉すら口にできず、ただ無言で抵抗する。
逃げようと涼介の腕を振りきって、扉に向かおうとした拓海の足を啓介が払い、背後から両足の間の裾を踏む。そして、涼介に右の袖を踏まれて拓海は身動きがとれなくなった。
カタカタと小さく震えて、拓海が体を固く強ばらせる。
「お前にしなが作れるとは端から思ってねぇけど、あんまり可愛くない態度だと、あの女殺すよ?」
「俺達は、あの女の命の代価を払えと言ったはずだ。事実、彼女を助けるより、斬首にするほうが、遙かに手間がかからないと解っているのか、お前は」
背中に二人の視線を感じて、拓海の顔から血の気がひいていく。
「い…いつもの冗談ですよね、二人とも」
「冗談ですませたければ、それでもいいぜ」
「明日、あの女の首をここに届けさせよう」
恐る恐る振り返った視線の先、楽しげな表情の二人を見て、拓海は口をつぐんだ。
「どうする?」
「その気があるなら、寝台に上がれよ。床の上が良いならそれもかまわねぇけど、寝台の方が体は楽だと思うぜ」
問いかける口調。
しかし、次はないと言外に告げる瞳に拓海は視線を落とし、目を閉じた。
「ほら、膝を立てて足をもっと開きなさい」
耳元で囁かれた声に、薄紅に染まった肌が小さく震える。
「お前、本当に抱かれたことねぇの?」
嗤いの含んだ啓介の台詞に拓海が首を振り立てる。
「んなこと…ある…はず……ない…でしょ」
途切れ途切れの、掠れた声での反論に啓介の笑みが深くなる。
「初めてにしちゃ、俺を銜え込んで、悦さそうな顔してるよ、お前」
啓介の台詞に彼を睨み返すが、今まで以上にはっきりと紅くなった顔では、威嚇することなどできはしない。
逃げをうつ身体を涼介が背後からとらえ、囚われた肢体を啓介がより深く穿つ。
「まるで女人のようだね。俺の指を押し返すほど、こんなに尖らせて」
そう言いながら、胸に色づく突起をすり上げるように摘み上げる涼介の指に、拓海が息を飲んで仰け反った。
「痛みに萎えるどころか、さっきよりかたくなってるぜ、拓海のココ」
「初めてというのが本当なら、顔に似合わず淫乱なんだな、拓海は」
「もう…やめ…てください」
二人の台詞に、はらはらと涙を零しながら、行為を止めるように、縋るように胸元を愛撫する涼介の腕を拓海は両手で掴む。
「これ以上言葉で苛められるのは嫌?」
小さく頷く拓海の様子に涼介がクスクスと笑う。
「だったら、無駄口叩く余裕がなくなるほど、ココで啓介を締め上げてみなさい」
「ひっ…」
啓介の雄刀を精一杯銜えている周囲の淵を涼介の指でなぞられて、拓海は息を飲む。
「俺の言葉は、その唇で塞いでくれればいい」
涼介はそう言いながら、拓海の顎に手をやって無理矢理肩越しに振りむかせると、舌を絡ませ唾液を混じり合わせるように深く口づける。
そんな二人の姿に啓介が喉を鳴らして、一層激しく華奢な拓海の体を攻め始めた。
例え記憶がなくても、二人から抱かれる快楽を教えられた肢体は、貪欲なほど二人の熱に狂喜する。
そのくせ、拓海の意識は二人からの行為を否定する。
そして、意識を離れた体の熱をもてあまし、暴走する肢体に戸惑い、絶望に近い感情すら感じている。
快楽を甘受しながら、快感を感じることに不信を抱き、二人を否定しながら悦楽に酔って流される。
いくつもの感情が入り交じって、その面に浮かぶ。
その表情は予想して以上に、二人を楽しませた。
慎ましやかだった拓海の花鞘は、すっかり熟して淫らに咲き開き、男の雄刀を受け入れ、包み込み、締め上げる。
-この敏感で快楽に従順な体だけでも十分楽しませるのに、こんな表情をするとは本当に最高だよ、お前-
それは啓介と涼介どちらの言葉だったのか、意識の溶けた拓海には解らなかったが、体の奥に感じる熱と圧迫感が、これは悪夢でなく現実だと拓海に教えていた。
「お加減がお悪いとお伺いしましたが、御気分はいかがですか」
枕元、優しい笑顔の真徳妃に拓海が起きあがって頭を下げる。
「…すみません」
「何をお謝りになりますの?」
「こんなことになって、本当にすみません」
「藤貴妃様」
「オレに敬語なんてやめてください!」
「拓海君…」
叫ぶような拓海の台詞に、真子も僅かに眉を寄せた。
「オレ、あんなに二人に良くしてもらっていたのに、なのにこんな事になって…」
「あなたが私たちに罪悪感を持つ必要なんてないのよ」
「だけど」
涼介が皇太子であった頃からその側にいて、この後宮で皇帝の寵姫として敬われていたのが、今では拓海の下に置かれている。こんな男の自分が貴妃で、皇后に次ぐ位などと。
名前だけならまだ良かった。でも、事実彼らに抱かれていることが拓海をいたたまれなくする。文字通り、彼女たちに会わせる顔がない。
「謝らなければいけないのは私の方だもの」
「真子さん?」
「拓海君を助けてあげることが出来ないもの。私には」
そう言って、寂しそうに笑う。
「私ね、碓氷に好きな人がいたの」
秘密の話をするように、小声でそう呟いた。
「告白して、返事をもらう前に赤城と戦になって。そして、私はここに来た」
「涼介さんのせいですか?」
「そう。本当は総領娘が来るのが順当なのだけど、彼女はまだ7歳の少女で、二人とも難色を示したの。そんな子供に何かあったら、困るの。本当に病死でも暗殺と疑われるから。本隊に仕掛けた私がよほど目立ったのか、名指しされてね」
「それで、好きな人と別れて」
「あの人、最後まで何もいってくれなかったから…」
拓海の同情するような瞳に、真子は寂しげな顔で言葉を濁す。
「逆に心配して一緒に来てくれたのが沙雪だったの」
「沙雪さんが?」
「ええ。本来、北の蛮族の娘が皇太子の妃になるなんて、望外の幸せ、身に余る幸運と喜ばなくてはいけないの」
そう言う真子の顔は決して幸せそうな笑顔には見えない。
「だけど、私は毛織の花嫁衣装を着て、好きな人に嫁いで、その人の子供を産んで、一緒に温かいご飯を食べる生活がしたかった」
そう言って顔を覆う真子に拓海はかける言葉を失う。ほんのささやかな願い。だけど、此処にいる限り、それは決して叶わぬ夢。
「私、笑顔を作るのに疲れてしまって。表のことを全部、沙雪に押しつけてしまったの。沙雪が淑妃なのは私のため。私を庇って、わざと皇帝陛下の寵姫の立場を強調して。私の代わりに彼女が周りから責められる。それが嫌で、他に妃を迎えろと陛下に言ったの。沙雪への矛先を少しでも反らしたくて、他に寵姫をつくってくれ、って。ご免なさい。拓海君にとって、此処での寵姫の生活が幸せでないと解っているのに、それでも私はあなたを助けてあげられない。私には沙雪が大切だから。彼女がいないと私は此処で生きていけない。きっと狂ってしまう」
「真子さん」
「ごめんなさい」と繰り返す真子の背中を拓海が宥めるようにさする。今まで、幸せだと思っていた。寵姫として微笑む姿があまりにも自然で、疑うこともしなかった。
でも、今なら少しは解る。絹の衣装も、輝く宝飾も、かしずく使用人も、決して「幸せ」をもたらすものではないと。
真子は普通に好きな人と結婚して、普通に生活する事で十分幸せになれた。その彼女にとって、ここは豪華な監獄に等しいのだろう。
「オレの方こそすみません。随分迷惑かけてたんでしょうね」
「ううん。私に出来る限りのことはするわ。ただ、恨むなら私を恨んでね」
そう言って切なげに微笑む真子に、拓海も笑顔を作る。
彼女を恨むなど出来るはずもない。沙雪以外、一人の味方もいないこの赤城の城で、彼女は耐えてきたのだ。責めることなど出来はしない。
入れ違いで沙淑妃が拓海の見舞いにきた。
「沙雪さん」
「石榴なんだけど、拓海君は好きかな?」
そう言って籠を差し出す。
「さっき、真子さんがきて、謝られてしまいました。助けてあげられなくて、ごめんと。恨むなら自分を恨んでくれと」
「それで、拓海君なんて言ったの?」
「何も…何も言えませんでした。責める事なんて出来ないです」
うつむき加減の拓海の側に、沙雪が腰掛けた。
「言っとくけど、あたしも同罪だからね」
「沙雪さん?」
沙雪の言葉に拓海が顔を上げる。
「最近、後宮の奴ら、大人しい真子に当たるようになったの。あたしの場合、やられたら倍返しするんだけど、あの子言い返しもしないから。皇帝も後宮の争いには口を挟まないし。嫌がらせとはいえ、かなりエスカレートしてきて、この前は真子の部屋に毒蛇が放たれて」
苦々しげに髪をかき上げる。
「だから、新しい寵姫を迎えてくれって、頼んだの。あの子があんな女達のせいでケガするの嫌だったから。兎に角、後宮連中の八つ当たりは他の人間に向けて欲しくて…八つ当たりを受ける人間のことなんて考えてなかった」
そう言って拓海を見つめる瞳に後悔の色がある。
「身勝手なのはあたしなの。だから、責めるならあたしにしてね」
「沙雪さん」
「子供を産むのには年齢制限あるけど、恋愛なら五十になっても出来るわ。白帝が死んだら、正門から堂々と碓氷に帰って、恋人つくって結婚するのが、あたしと真子の夢なのよ」
「本気ですか?」
「ええ、あんなに人様の恨み買いまくる人生送ってるんですもの、絶対長生きしないわよあの男。白帝の葬儀で悲しげな顔で内心「ざまーみろ」と言うのが、今一番の楽しみなのよ」
沙雪の言葉に拓海は絶句する。
少し戯けた口調だった沙雪が真顔になる。
「…惚れていない男に、義務で抱かれる程、女に取って悔しいことはないわ。真子を寝所に入れない代わりに、後宮のことは一切あたしが仕切ると約束したの。完璧に寵姫の役所を務めることと引き替えに、あたし達を「女」として扱わない。それが白帝との契約…」
思いがけない沙雪の告白に拓海は呆然となった。では、二人は厳密に言えば皇帝の寵姫ではなかったのか。彼が後宮に対する煩わしさから、彼女二人に寵姫として振る舞うことを要求したのか。どこまでも身勝手な彼の態度に、拓海は唇を噛みしめる。
沙雪が僅かに視線を伏せた。
「そのせいで、拓海君には『寝所』の『寵姫』まで押しつけてしまったね」
沙雪の言葉に拓海はカッと赤くなる。
「どこまでが本気で口実か、あたしにも解らない。後宮の女に手を出さない理由が、下手に子供が出来るのは困る、というのも本音でしょうね。あたし達に子供が出来ても困ったろうから、あんな条件言わなくても寝所に召されることはなかったかもしれないと、今なら思うわ」
「沙雪さん」
「あの人達は人としての感情が希薄なの。情よりも理を、合理性を優先させてしまうのよ。そうと解っていても、自分の気持ちや言葉が届かないのは辛いわね」
そう言って寂しげに微笑んだ。
「あたしも身勝手なの。拓海君のことは気に入ってるけど、結局、あなたよりも真子をあたしは優先させるわ。大切なものは一つでないと、守りきれないから…」
「真子さんにも、そう言われました」
「ごめんね。あたしも、真子も身勝手で。そして、白帝と皇太子も身勝手なの。あの二人にも、どうしても捨てきれないものがあるから」
扉を開いて、部屋を出ていこうとする沙雪が振り返り、最後に付け加える。
「拓海君も身勝手に徹しなさい。でないと此処では暮らしていけないわ」
そう言った沙雪の表情に、拓海は何も言えなくなった。
優しくて、強くて、どこか脆い、その姿が透けて見える。彼女たちの本音は拓海の心に重くのしかかる。
綺麗で華やかだが、氷のように冷たい皇宮の姿が初めて見えた。
三日後、夏紀は実家に戻される。
今度の不祥事により、夏紀の後見をしていた偉太傅の娘、朱宝林も監督不行届を理由に実家に帰され、父親である偉信とその兄弟三人が役を解かれた。
皇城では先帝の代から政治の中枢にいた偉一族の本家が、主流から外されることになり、勢力分布が変わるきっかけとなった。
そして、藤美人は皇后に次ぐ貴妃の位を皇帝より賜り、三夫人の筆頭、後宮での一位となった。これより、拓海は藤貴妃と呼ばれることになる。
ぐったりと寝台で寝入っている拓海を残して、皇帝と皇太子は脱ぎ捨てていた一枚を床から拾い上げて羽織ると、簡単に紐で縛り、隣室へと移動した。
普段は冷然とした印象を与える二人の端正な顔だが、今は狂宴をしのばせるいささか上気した肌に、僅かに額にかかるほつれた髪が、ひどく徒めいて見える。
藤貴妃となった拓海は、今や二人の腕を拒むことはしない。
兄弟が言葉に出さずとも、差し出す指や視線一つで拓海は寵姫として寝所に侍る。
諦めにも似た暗い瞳の色。
そのくせ、どこか反抗的な色が見え隠れして、二人を楽しませる。
真実彼らの寵姫となりながら、決して従順な態度はみせず、表情だけでなく、面と向かって「あんたらなんか嫌いだ」と告げるその態度が気に入っていた。
ゆっくりと拓海の反応を伺いながら、その肌を指で辿り、舌を這わせ、唇で愛撫しながら淫らな言葉で煽り、拓海が泣いて堕ちるのを楽しむ。
-いつまで、その態度が保つのか-
-いつまで、あの瞳を俺達に向けることができるのか-
艶色に染まった肌を二人の視線にさらして、嬌声をあげる拓海を見つめながら、二人はこの遊びに夢中になっていた。
喉の乾きを潤すように、二人とも酒杯を一気に空ける。
あの日、快楽に酔わせ、解放を許さずにギリギリまで拓海を追いつめて、「何をして欲しい」「拓海の唇からのおねだりなら何でも聞いてやる」と告げた二人に、拓海が言った言葉。
あの時、返事には一瞬の間があった。
しかし、「夏紀を助けて…夏紀の命を助けて!」叫ぶようにそう答えた拓海に、二人は目を見開いた。
「思っていたよりも拓海は聡い」と、はからずに二人は思った。
はっきり言って、彼らには最初から夏紀を助ける気などなかった。
藤美人が男だと、ふれ回られては困ると考えていたから、彼女を始末する気だった。
いや、夏紀に拓海を殺させ、その罪により彼女も、彼女の後見をしている偉家も始末する気だったというほうが、より正しい。
しかし、予想外の結果が出た。
拓海は無傷で、彼女の助命を二人に請うた。それは彼らにとっては誤算と言える。
しかし、まだ余裕があった。
予想外の結果を楽しむだけのゆとりが残っていたから、涼介は直ぐさま筋書きを変えた。
夏紀の命は助けよう、ただし没落は免れぬ状態に追い込んでみせる。
夏紀を家に帰し、後見を務めていた偉本家の人間の職を解いた。
涼介は茂木の家を潰す気でいた。
いずれ、彼らが一家心中を選ばずにはいられぬほどに、追いつめるつもりだった。
そして、卓の上に置かれていた書状に二人は目を通す。
「ふ~ん。偉家の連中、南に下るのか」
「家財道具全て抱えてとは、大層な荷物だろうに」
「本当だぜ。そんな目立つ旅支度では、盗賊に襲われなければ良いけどなぁ」
クスクスと笑いながら、報告書に目を通す。
二人のもとに、偉家とその使用人が、都を出てすぐ盗賊の『群狼』に襲われて財産全て奪われた上、皆殺しになったと連絡が入ったのは、その五日後のこと。
皇帝の命により、偉家傍流の者により彼らの葬儀が執り行われ、旧太傅であった偉信には弔文と諡名がおくられた。