鋼の翼 (リヴァイ×エレン)
ウォール・シーナの統合本部で三兵団の責任者が集まって行われる定例報告会。普段ならば、兵長身分のリヴァイがこの席に出ることはない。それでも、今回に限らずここ最近、定例報告会でこの席に座っているのは、エレンの状況報告の義務が課せられているからだ。「トロスト区の方は、復旧に向けて破壊された建物の撤去と洗浄を行っている。扉というか、大岩の方は今のところ無事だが、このまま岩と壁の隙間を埋めた後、全体を補修材で塗り固める作業を急いでいる。住人の移動は今しばらく時間が必要なので、このままウォール・ローゼで一時的に預かる形を取る。不足している宿泊施設に関しては、簡易テントでしのいでもらうしかないな」
駐屯兵団南方防衛の責任者であるピクシスの報告に、調査兵団団長エルヴィンと憲兵団団長ナイル・ドークが頷く。
今回、人的被害も大きいが、建物の撤去作業と岩で塞いだ箇所の補強が急務となる。とにかく、トロスト区の住人が戻れるようにしなくては、ウォール・マリアにしわ寄せが行き、不定住居者の区域がそのままスラム化する恐れがある。
まあ、身内を巨人に殺された者や、眼の前で喰われる様を見た者は戻りたくはないだろうが、そこ以外に住める場所がない。
ウォール・ローゼに住まいを移すにも着の身着のまま避難した者達は財産がなく、生産者として従事する以外に住居の割り当てを得られない。
今も一時避難措置の扱いだが、支給される食糧は不足気味で、糧を得る為に農地開墾を奨励という名目だが半強制となっている。
それでも、彼等の不満が抑えられているのは、巨人を駆逐した今、元の居住区に戻れる期待があるからだ。
巨人に喰われた者達は身元確認が出来ずにほとんどが纏めて火葬され、行方不明者も一緒に共同墓地に名簿が納められる。
多大な犠牲を払ったトロスト区奪還作戦だが、意義はあった。
少なくとも、ウォール・ローゼの住民が、ウォール・シーナに雪崩込む事態は避けれたのだから。
「駐屯兵団はこのままトロスト区の復旧作業と壁上武装の強化を優先させることを了承願いたい」
「承知した」
「同意する」
ピクシスの報告が終わると、次はエルヴィンが事務的に報告書を読み上げていく。
「調査兵団は、現在五十七回壁外調査に向けて兵団の編成と訓練中だ。一○四期の新兵達は巨人との戦闘経験がある分、他の新兵よりも適応するのが早い。生き残る為には何が必要か理解しているから、余計な気負いもない。彼等を伴って壁外調査に出るのに何ら問題はない」
「その訓練中の新兵の中には、あの化け物も含まれているのか?」
憲兵団団長ナイル・ドークの言葉に眉を跳ね上げたのはエルヴィンではなく、リヴァイだ。
「エレン・イェーガーは一○四期生で五位だが新兵だ。未熟で有る以上、訓練をするのは当然だろう」
「未熟だと?そんな状態で大丈夫なのか?」
「新兵としては別段見劣りする程ではない。まあ、直情傾向があるせいで、攻撃がいささ単調になるきらいはあるが、それは訓練で矯正可能な範囲だ」
実際、巨人との戦い方ではなく、逃げ方を教わることに不満がある様子だが、それでもリヴァイが指示した訓練で手を抜くような真似はしないし、リヴァイが不在の時も態度が変わることもなく、ペトラ達の指示をよく聞いている。
認めてもらう為には実績が必要で、今は与えられた仕事を精一杯にこなすしかないと、自分に課しているのがよく分かる。
「訓練兵の成績報告を見ても、彼はミカサ・アッカーマンのような特に秀でた才がある訳ではない。それを努力で五位まで這い上がってきたのだから、根性はある。それに、きちんと自分の立場は弁えている子だ。今は言葉を尽くすのでなはく、己の行動が大事だと理解している。リヴァイ達の訓練に根をあげず、よく付いてきている。普通の新兵ならば、三日でつぶれるところなのに、身体が丈夫なのは幸いだ」
「『あれ』を丈夫ですますのか!」
「何か問題が?」
ナイル・ドークの怒声をエルヴィンはさらりと受け流す。
「奴を本当に飼い慣らせるつもりか?」
「腹の内まではわからないが、今の所リヴァイの指示には従うし、周囲と衝突することもない。つまり、問題はない」
「それが見せかけではないとどうして言える!」
「うるさい、黙れ」
地を這うような声で、リヴァイが恫喝した。毎回毎回これだ。いい加減聞き飽きた台詞を何回口にすればこいつらは黙るんだ。
「貴様達がどう思うと、俺からすればあのクソガキは経験不足な新兵にすぎん。だから、訓練で鍛える。また、巨人化しても問題はない。少なくとも、俺ならば確実に殺せるし、今あいつの周囲にいる連中ならば、捕獲出来る。貴様らに出来なくても、俺達には出来る。だからいちいちギャーギャー喚くな」
「リヴァイ、貴様我々を侮辱するか!」
「侮辱?事実を言っただけだ。安心しろ、お前等にあいつの首を削げなどと無茶を言う気はねぇよ」
「それが慢心でないという保証があるのか!」
「慢心じゃねぇ、実現可能な事実だ」
リヴァイの暴言とも言える言葉をエルヴィンは制止しない。ここに来るまで、随分と鬱屈していたから、丁度良いと思っていた。
でないと、リヴァイ班とエレンが八つ当たりの対象になってしまう。
やり合う二人を置いて、のんびりとした口調で、ピクシスがエルヴィンに言葉をかけた。
「なぁ、エルヴィン、ミカサ・アッカーマンを駐屯兵団に寄越す気はないか?」
「アッカーマンをですか?」
「ああ、彼女がいれば、駐屯兵団を建て直す時間が稼げる」
リヴァイの再来という前評判はトロスト区戦で証明された。一騎当千という言葉を使いたくはないが、それに準じる価値が彼女にはある。
実際、今回のトロスト区奪還作戦で、駐屯兵団の精鋭は磨り潰してしまった。戦力としての弱体化は否定できないのだ。だからこそ、ミカサがいれば、彼女を旗にして他の兵達は踏ん張る事が出来る。彼女がいればと、自分を奮い立たせることが出来る。
このままでは、再び巨人と対した時、どこまで戦線を維持できるか心許ないというのが、本音だった。
「無理ですね、うちでも彼女は貴重な戦力ですし、エレンに対する押さえの役目もある。この時期で彼女を引き離せば、エレンの不信を招きかねない」
少なくとも、自我のある間エレンは、彼女を傷つけまいとするだろう。そして、ミカサは彼の自我を戻すべく奮起する。二人を引き離すことにメリットを感じないとエルヴィンが一蹴した。
「仕方がないか」
駐屯兵団では、巨人化するエレンを怖れる人間の方が多いのだ。確かに、これではエレンを飼い殺しにしてしまう。
「ピクシス、正気か?ミカサ・アッカーマンは奴の同類かもしれんというのに」
「同類か、ならばこれ程心強いことはないがな」
ピクシスにも軽くいなされて、ドークは顔を真っ赤にして拳を震わせた。
忌々しいのはエレンだけではない。一○四期訓練兵団の上位十名の内、憲兵団を希望したのは僅か一名。本来、最も誉れ高き憲兵団は、エリート中のエリートとして、そのユニコーンの団章を手に入れることが何よりも価値を持つはずだったのだ。
それなのに、上位十名の内、一人が死亡、二人は巨人の可能性から除外するにしても半数以上が調査兵団を希望した。いや、今回調査兵団を希望した二十一名の内には、十位以内を射程内にしていた上位組が多く含まれている。
彼等は憲兵団に入る栄誉よりも、調査兵団に入ることを誇りに選んだのだ。
つまり、ナイル・ドークではなく、エルヴィン・スミスを己の命を預ける指揮官として選んだということに他ならない。
そして、エレンが審議所で叫んだ腰抜けという言葉は、ナイル・ドークの自尊心を傷つけ、リヴァイは彼等の臆病さと逃げ腰を嘲笑する。
お前等には戦う覚悟も技量もない。怖くて出来ないのなら、黙って見ていろと。
そして、三兵団団長の内、一番若輩であるエルヴィンの発言権は、ここにきて大きくなっている。
このままでは、自分の地位が揺らぐとドークは焦っていた。
そして、彼の焦りは憲兵団という組織の焦りだった。
ウォール・シーナの壁を越え、ウォール・ローゼに入り、そこから旧憲兵団本部に戻るリヴァイは疲労感を拭えずにいた。
はっきり言って不毛な会話の繰り返しで、何の益もない。
それでも、憲兵団に口実を与えない為に、出向かざるを得ない。
実際、エレンを地下に置くことはともかく、鎖に繋ぐ意味が分からない。彼が本気で刃向かう気になれば、枷一つでは押さえ込めるはずもない。そんなことすら解らないのかと思う。
だが、必要なのだ。彼がリヴァイに従うこと、従順であることを周囲に示す為に、自ら枷を付けることが。リヴァイにすれば馬鹿馬鹿しいことだ。
それこそ、襲撃を受けたとき、人型のエレンが枷に繋がれていては、かえって行動が制限されて面倒だというのに。
エレンは自分が巨人化することを自覚していなかった。いや、意図的に隠されていたと言っていい。それだけに、自身で巨人化を完全に制御出来ず、戸惑っている感がある。
何が出来て何が出来ないのか、エレン自身が手探りなのだ。それだけに、不安と怯えが時折よぎる。それを必死で押さえて訓練に臨む姿は、普通の新兵と変わらない。
それに、人型をしている時のエレンの身体能力は、通常の数値範囲で、特に目を引く技量ではない。
どちらかと言えば、気力で底上げするタイプで、ある意味自分の力量を顧みずに突っ込む厄介な兵士だ。
エレンはリヴァイ班の面子を調査兵団の最精鋭と認識しているが、実際は少し違う。
今回、リヴァイが直接指名して編成した特別作戦班は、エレンの監視と護衛が任務だ。巨人化したエレンが暴走もしくは反逆行為をした場合に速やかな討伐と、ウォール・マリア奪還の布石としてシガンシナ区まで無事に連れて行く為に他の巨人から彼を守るのが第一の任務だから、対巨人戦闘の主力としては使えない。
実の所、調査兵団の最精鋭と呼ばれるのは、分隊長であるハンジ直属になる。
まあ、彼女と付き合うには精神的強靱さが必要というのもあるが、それ以上にハンジ・ゾエは巨人を捕縛しようとする。巨人を殺すのは難しいが、それ以上に生きたまま捕らえるのは至難の技だ。
純粋な力勝負では負ける。普通に肉を削ぐだけでは簡単に回復する。相手の傷が回復する前に、身動き出来ないように巨人の身体を固定して捕縛するのは、調査兵団の中でも特に冷静さと技量に長けた者でなくては無理だ。
逆にリヴァイやもう一人の分隊長ミケ・ザカリスは巨人殲滅に特化している。
だが、もともと調査兵団は巨人の特性を調べるのが目的な訳で、片っ端から殺してばかりでは主目的が果たせないことになる。
そういう意味で、リヴァイが選んだ面子というのは、対巨人戦としては強いが、調査兵団の設立目的からすると一番外れた存在ということになる。
別に馴れ合いを望む訳ではないが、それでもエレンに対して余計な圧力をかけたい訳ではない。
だが、自分達がエレンを殺す可能性と殺される可能性を常に意識させているのは、彼が身内と認識した相手にひどく無防備になるからだ。
もう少し警戒心を持てというつもりで言ったのだが、どうもうまく伝わっていないようで、ペトラは溜息をついて首を振り、エルドまでも肩を竦めた。
現在、訓練に参加している一○四期の新兵は、対巨人戦を経験したせいか、他の訓練終了時の兵士達のようにリヴァイに憧れてとか、理想を求めて入団した者はいない。
巨人の恐ろしさを知っているが故に、生き残る為には何が必要か理解しており、訓練兵団時代よりもきつい調査兵団の訓練によく耐えて付いてきている。
これが出来なくては生き残れないのだと、貪欲に食らつく様に、指導している者達も顔を綻ばせている。厳しい指導は、彼等を生かしてやりたいからだ。初回の壁外調査で新人の生存率は五割。それを少しでも引き上げたいからこそ、新人に対する指導が厳しくなる。
それを解って必死で付いていこうとする彼等の態度は、指導する側も嬉しいのだ。なんせ、その指導の意味を知る前に死ぬ者が多いのだから。
そして、彼等一○四期兵の存在は、調査兵団の中にあったエレンに対する警戒心を解く役目もしていた。
彼等はエレンを怖れない。いや、怖れはあるのだろうが、化け物とは呼ばない。そして、悪態を付きながらエレンの訓練兵時代のことを話す。
彼は決して器用な人間ではなく、最初は立体機動で姿勢を保つことすら出来なかったこと。それでも必死で努力して、制御出来るようになったこと。
「訓練兵団に入った時から、調査兵団に入って壁外調査に出るのが彼の夢だったんです」「母親を殺した巨人を心底憎んでいたのを知っている。だから、あいつが巨人の味方をすることだけは絶対にない」
「超大型巨人が現れてトロスト区が襲撃された時、俺達に迎撃の檄を飛ばしたのは、駐屯兵団じゃなくてエレンだったんだ」
何の権限もなければ実戦経験もない卒業直前の訓練兵、それがその場にいる者全てに戦えと命じた。
「あれで正気に戻った。エレンの檄がなかったから、あのまま呆然として巨人に喰われていたかもしれない」
巨人を殺す巨人を見た。その圧倒的な破壊力と殺傷力に恐怖しないと言えば嘘になる。それでも、あの巨人は群がる他の巨人にその両手を喰われながら、最後の力を振り絞るように、執念でトーマスを喰った奇行種の喉元に喰らいつき、噛み殺した。
偶然なのかもしれない、それでもあれがエレンの意思だとしたら、きっと俺達の知るエレンは嘘じゃない。そんな器用な真似が出来る奴じゃないし、小狡い真似が出来る奴でもない。あいつは馬鹿みたいに真っ直ぐなんだ、言動も行動も。
ミカサやアルミンじゃあるまいし、あいつの為に無条件で死ねと言われれば躊躇する。俺達は死にたくない。だけど、あいつを守って戦うことに、不満はない。あいつが破壊された穴を塞ぐというなら、それに賭ける程度は信じている。
「あいつは巨人を憎んでいる。その点だけは疑う余地がない」
三年掛けてエレンと共に過ごした彼等の言葉は、調査兵団の団員達にも届いた。
そして、リヴァイに小突かれ蹴られながら、必死で訓練のノルマを果たすエレンの姿に、怖れは小さくなった。
旧調査兵団本部の古城で生活しているのは、エレンとリヴァイ班だが、不定期にハンジが寝泊まりし、他の団員も日中は顔を出す。
まあ、六人だけでは城の掃除が行き届かない。というか、リヴァイの要求するレベルに拘ると一日掃除で終わってしまう。
なので、日中訓練の傍ら団員達が食料や日常品の運び入れと掃除の手伝いを行っている。
以外と料理が上手いのが、エルドとグンタ。香草をうまく使って魚や塩漬け肉も癖のない味に調理してくれる。ペトラはシチューなどの煮込み料理が得意だが、大鍋一杯に作ってしまうので、しばらく同じメニューが続く。
オルオが作るとやたら食べる前に聞かされる蘊蓄が長く、身体に良い食材をいろいろと入れた独創的な味の料理がたまに出てくる。
リヴァイは基本食べられれば文句は言わない主義だ。そのせいか、彼が作るとほとんど野営料理に近い代物になる。食べられない訳ではないのだが、壁内なのに水で嵩増しした穀物粥とか缶詰そのままというのは、リヴァイ班の者達であっても何とも微妙な気分になるそうだ。
ハンジは料理が下手なのではない。ただ、巨人に対する実験結果を語りながらごろごろとした臓物煮込みを出されても常人ならば食欲が湧かない。いや、平気で臓物煮込みが食えるハンジが変なのだとエレンなどは思う。
ハンジの場合、巨人に対する過ぎた憎悪が微妙に捻れ、執着にも見える程の捻れ具合だ。それを知っている者達は早々に逃げ出すが、エレンは何度か捕まって、夜通し彼女の講義と持論を聞かされている。そういう意味では、要領が悪いというか、学習能力がないというか、素直すぎるというか。
もっとも、ハンジの講義に夜通し付き合わされる間、リヴァイはエレンを地下に繋いだりしない。ある種の人身御供という認識もあるが、そもそもハンジがそれを許さない。
彼女にとって、エレンは貴重な被検体であって、決して『化け物』ではないからだ。
なんせ、捕獲した巨人とは意思の疎通が不可能だった。だが、エレンは会話が出来るのだ。そのエレンを不用意に痛めつけたり、抑圧したりする理由がない。
寝る時は地下室で、それがルールだから。起きているなら繋ぐ必要はない。たとえそれがハンジのくだらない講義でも、団員達とのカードゲームや夜話でも、起きているのだから、地下牢に繋がなくてもルール違反にはならない。まあ、不眠が続けばそれが引き金になって巨人化するとなったから…間違いなくハンジが嬉々として何日で巨人化するか調べると言い出すだろうが。
リヴァイに対する絶対服従は、彼の生命を保証するために必要だった。
だから、審議所での暴行は後悔していないのだが、無意識に緊張されるのはいささかリヴァイにとって歯痒かったりする。
エレンの瞳にリヴァイに対する畏怖と尊敬を見る度に、どちらに苛立つのか解らない。
自分が英雄なんかじゃないことはリヴァイ自身がよく分かっている。一個師団にも匹敵すると言われているリヴァイだが、本人はそれ程の力はないと知っている。実際にそこまでの力があるなら、毎回二割もの死者を出していない。単機で攻撃をすることは得意だが、他者に合わせて連携を取ったり、指示を出しながら戦うことは不得手だ。それに、他人を指導するにも言葉が足らず、根本的に向いていない。だからこそ、リヴァイは『兵長』であって隊員を預かる『隊長』ではない。
あくまでも遊撃でしか、リヴァイの特性は生かせない。彼の攻撃や反応についていける人間がいない為だ。
それでも『最強』の称号をそのままにしているのは、英雄が必要だと知っているからだ。
終わりが見えない巨人との戦闘。敗北を重ね続け、成果と呼べる物は微々たるものだ。 なんせ、巨人を調査する以前に、討伐して生き残る方が大変なのだから、七メートル級を生け捕りにするだけでも団員は命懸けだ。そして、加減が出来ないリヴァイだと、殺すのはともかく、生かしたまま力を削ぐのが難しい。ついイラッとして、巨人の項を削いでしまう。
そのせいで、何度ハンジに文句を言われたことか。
「解かってるのかな?我々の使命は巨人の調査なんだよ?片っぱしから殺してたら、消し炭破片しか残らないじゃないか」
リヴァイとしては、繊細な作業を俺に求めるなと言いたいのだが。
憧憬の眼差しで無責任な声援を送ってくる民衆の声ならば簡単に無視も出来た。だが、命潰える瞬間に託された思いは、リヴァイの中に消えることなく降り積もる。
決して無駄死にじゃない。明日に希望を繋ぐ為の行為だと、喰い散らかされて残骸になった兵士に告げる。
怒りと復讐で巨人を殺しても、何も変わらなかった。だから、自分は巨人を徹底的に調べて、巨人を一掃する方法を見つけると、ハンジは繰り返す。その信念があればこそ、あの奇行ともいえる突拍子のない行動と傍迷惑な言動が許されている。
まあ、巨人の研究に熱心なせいで、事務処理やら陳情やらは部下に丸投げで、彼女の下が一番こき使われると言われているが。
多分、リヴァイがエレンを手元に置こうを思ったのは、地下で鎖に繋がれた無力な少年だったからではない。自由を奪われながら、命乞いをするのではなく、調査兵団に入って巨人を殺したいと言った、あの狂気をはらんだ激情の眼差しだ。
それは間違いなく、調査兵団に属する者達が、内側に秘めている想い。
いつか、自分の足でこの壁を超え世界を見降ろすのだと。
壁の内側でなく、壁外に実りをたたえた緑野が広がる様をいつの日にか実現したいという祈りにも似た希求。これから生まれてくる子供達が絶望の中で生きることが無い様に。生き方を生きる場所を自分で選べるように。
たとえ自分が死んでも、その志は次代へ繋がると信じている。
託された命と想いが、リヴァイの肩にのしかかる。昔ならそれを関係ないと振り棄てることも出来たが、今ではそれを捨てることなど出来はしない。
だからリヴァイは立場上、ウォール・シーナの連中の戯言すら無視できないのだ。
今更、エレンを憲兵団に引き渡す気もなければ、ウォール・シーナの連中によってスケープ・ゴートされるのも気分が悪い。
だが、守れる者は限られている。エレンの為に調査兵団を犠牲にする気はなかった。
「お前は馬鹿か?視界を遮る障害物が多い、その上立体起動に優位な森の中でどうしてそんなに逃げるのが遅いんだ!」
その直進できない障害物のせいで、エレンの立体起動が加速出来ず、その上ペトラ達に逃走ルートを簡単に予測されて捕縛というか叩き落とされている。
「相手の動きを予測しろ!巨人はじっとしている的じゃねぇと何度言わせる!」
ゲシッと容赦ないリヴァイの蹴りが、エレンの背中を蹴りつけているのに、ペトラ達が乾いた笑いを零す。
「お前達もこいつを甘やかすんじゃねぇ!」
「「「「はいっ、兵長!」」」」
リヴァイの怒声に思わずペトラ達が唱和で応える。
別に訓練で手を抜いている訳ではない。少なくとも、訓練兵団を卒業したばかりのエレンに遅れを取るような不甲斐ない真似は出来るはずもなく、その点は真剣にやっている。ただ、リヴァイのように直接蹴りを入れないだけだ。
実際、まずは馬に乗る、走らせるだけでも数日かかる。平地を並足で行くならともかく木々の間を全速力で駆けることが出来るようになるまで、エレンは何度も落馬している。
それをリヴァイは人より頑丈だから大丈夫だろうと言い放ち、訓練を中断するどころかそのまま立体起動による回避訓練に移る始末。
「ぼさっとするな!地面に転がったままだと巨人の餌だろうが!さっさと動け、この愚図野郎!」と怒声と一緒に拳と蹴りが飛んでいる。硬化スチールの剣でないだけ、一応リヴァイなりに手加減しているのだろうか。
エルドにすれば、なんかもう、俺達がしごく必要はないんじゃないか、というかこれ以上しごくとエレンが倒れるんじゃないかとか、ちゃんと付いて来いよと声をかけたくなる程で。
エレンは毎日ボロボロの姿で夕食の席に付き、そこから一般の新兵が受けるのと同じ内容の座学講習をエルド、グンタ・ペトラの三人から詰め込まれる。
エレンが努力家なのはその訓練や講義に対する真摯な態度でそれとわかる。それでも、この数日で鍛えていたはずの筋肉は悲鳴を上げ、剣を握る手の皮がむけて新しく出来た肉刺が潰れている。『最強』を冠する部隊に放り込まれたエレンは、毎日の課題をこなすのに精一杯だった。
「風呂で寝るなよ、死ぬぞ」
「ふぁい」
よれているエレンにエルドが声をかける。器用ではないが、真面目な性格で、基礎力も低くない。卒業したばかりの新兵としては上位の部類だと思う。ただ、リヴァイの要求が高すぎて、それに今は追いつけていないだけだが、本人がひどく落ち込む。ただ、朝がくると反骨精神からか復活して食らいついてくるのだが。
「素直で良い子よね」
「まあな、あれでもう少し耐えることを覚えたら、良い兵士になるんだが」
「ああ…あの負けん気がなぁ」
良くも悪くも、エレンの基本的思考は防御ではなく攻撃。訓練も巨人の攻撃をかわして反撃することを望む。ただ逃げるだけというのは我慢できないらしい。一応、指示には従うものの、不満が隠せていない。
エレンを新兵として扱うと、リヴァイは断言していた。
ならば、まずは馬上行軍と巨人回避の訓練になる。壁外では立体機動が生かせるアンカーが刺さるのは住居区と森林区域だけだ。
平地部であれば、馬上からの攻撃になる。足である馬とはぐれる危険も高く、タイミングが難しいこれは、ある程度、他者と連携が出来るようになってからの攻撃で、新兵に最初からそれを要求したいりしないのが、暗黙の了解だ。
逃げるにしても、ただ闇雲に逃げるのではガスの消費が増える。巨人の行動を予測し、次に誘導する。新兵が覚えるのはまずそこからだというのに、エレンは巨人に背を向けるのが我慢出来ないらしい。
さすがリヴァイ兵長とエルヴィン団長に調査兵団に入って巨人を殺したいと言っただけのことはあるとリヴァイ班の者達は思う。まぁ、オルオなどは生意気だ、ひよっこが百年早いと小突いているが。
巨人化できるエレンは調査兵団にとっても諸刃の剣。確かに壁を塞ぐには重要な戦力となるだろう。だが、自我のないまま暴走したら、通常種とは比較にならない脅威だ。なんせ、彼一人で巨人二十体を倒したという。調査兵団でも一回でそれだけを討伐できる小隊は数えるほどだ。味方であれば頼もしい。だが、敵対するなら一人で確実に倒せる自信はない。
いや、自分達は彼を守れと言われている。襲ってくる巨人達を近寄せるな、力をコントロール出来ずに暴走する彼自身から彼の本体ともいえる身体を守れと。
リヴァイは一回で全てが上手く行くとは思っていない。何度も挑戦することになるだろう。だから俺達は本来の目的を忘れてあいつが暴れたら、あいつの首根っこを掻っ捌いて、あの馬鹿を連れ戻すのが任務だとペトラ達に説明した。
多少あれの手足を削っても大丈夫だろと平然と言っていたが、多分に希望的観測を含む暴言だろう。それでも、一度や二度の失敗で、彼を殺す気がないことは分かった。ウォール・マリアを奪還出来るまで、何度でも巨人化した彼を基軸にし挑戦するのだと。
巨人の為に命を賭けられるのかと言えば、正直なところ解からない。それでも、あの不器用なエレンの為ならば、この剣を使うことは出来る。
母を殺した巨人を憎む以上に、母を助けることが出来なかった己を責めている子供。
自分自身を守ることすらできない小さなその手で救えなかったとしても、それは仕方がないことなのに。罪悪感を埋める為に、誰よりも強くなろうとする子供。
ペトラ達の目に映るのは、拒絶されたらどうしようと怯えて手を差し出せない、臆病な子供の姿だった。
カツン、カツンと石の階段を下りる音がやたらと響くのは、この建物が古いというよりも、広さに対して人が少ないせいだろう。
燃料が勿体ないと、照明にしても必要最低限しか灯していないせいで、何とも薄暗いというか陰が濃い。
手にランプを持って、リヴァイは地下に下りる。
エレンが寝室として使っているのは、元々は懲罰房として用いられた地下室で、扉は鋼鉄製で覗き窓があり、天井近い壁に明かり取りの小窓がある。
罪人だというように鎖で繋がれていた見張り付き鉄格子の部屋よりも多少はマシだろうか。
一応、両手を鎖に繋ぐが部屋の中は動ける程度の長さがあるし、部屋にはトイレもある。
ここでの鎖は、あくまでもエレンが逆らう意思がないことを、リヴァイ達に対する恭順を示すための形式に過ぎない。
実際、エレンが巨人になって本気で刃向かうとしたら、こんな鎖程度じゃ無駄だろうしなと、独りごちる。
巨人の動きを止めたいならば、それこそ七メートル級ですら綱状に編み上げたワイヤーで拘束するだけではなく、関節という関節に杭を打ち込んで固定でもしないと駄目なことなど、調査兵団の者なら誰でも知っている。
それに、通常の巨人ならば、個体差があるが光を遮断すれば動きが鈍る。
しかし、エレンは一晩暗闇の中にいても朝リヴァイが起こせば目覚めて活動を始める。この時点で通常の巨人とは違う種なのだと解るのに、それすらもあの智恵足らずの豚どもは理解せずに『巨人』で一括りにする。
「入るぞ」
一言断ってから、リヴァイが重い鋼鉄製の扉を押し開けると、質素な木のベッドの上で、エレンがいつも通りその両腕を鎖に繋いでいる所だった。
「あっ、ご苦労様です」
目上のリヴァイの前で、ベッドに入ったままなのは気が引けるのだが、取り敢えずベッドの両端に繋がった鎖を両手に嵌めたことを確認してもらうために、こういう姿勢になってしまう。
リヴァイの手がエレンの手首の手錠を確認して、鍵を掛ける。カチリと響く小さな音に、エレンは少しだけ胸が痛む。
信じて欲しいと、どんなに叫んでも何の実績もない今は無理なことは解っている。だから、これは俺が調査兵団に敵意がないことを信じてもらう為にする行為なのだと、そう自分に言い聞かせて手錠をはめた両腕をリヴァイに差し出すのだ。
「ふん、治りが思ったよりも遅ぇな」
リヴァイがエレンの掌を指でなぞりながら呟いた。
「えっ?」
「折れた歯は簡単に生えたくせに、どうして掌の傷がこんなに時間がかかるんだ?」
「さぁ…オレにもよく解らないんで…」
ズルリと皮のむけた掌に、剣を人握る箇所の潰れた肉刺。何度も肉刺を潰し、皮が固くなり、リヴァイ達のような駐屯兵団特有の手になるのだと、ペトラが薬を塗ってくれた。 出血は意外と早く止まるのだが、再生は小さな傷ほど治らない傾向があるようで、これもハンジのあたりが目を輝かせて記録をつけていた。
まあ、確かに、傷の治りが異様に早かったら、訓練兵団時代で自分の異常さに気がついていたはずだ。
あの頃も擦過傷は日常的につくっていたのだから。変なところで通常の人並みなところと、異様さが交じっている。
「仕方がない、明日からは皮の手袋を嵌めろ」
「とんでもないです。そんなこと…」
「ズル剥けの手で握って、剣が滑ったらかえって危険だ」
「はい…っ痛いです!」
傷の上から押されたら、いくら何でも痛い。それなのに、リヴァイはグイグイと掌を指で押してくるのに、エレンは必死で堪えた。
「普通の手だな」
「はい?」
「いや、再生した場合、筋力は鍛えられたままの状態で再生するのか、それとも鍛える前の状態で再生するのか、どちらかと思ってな」
お前、一度は巨人にこの手を喰われて再生したんだろう。どっちなんだと真顔で問われ、エレンは言葉に詰まった。
「動かすのに支障はないですし、長さとかも別に変わりはないかと。筋力は…どうなんだろう。別に剣の扱いに困らないから、自覚する程落ちていないんだと思います」
問題なく、立体機動で移動しながら、双剣を振るえている。
「そうなのか?それにしては掌が柔らかい気がするが。三年かけて鍛えられたにしては、皮膚が柔らかい。だから、数日の訓練で皮が剥ける」
「っ!…痛い…です…」
リヴァイの指で押されて、ジクジクと痛む掌にエレンの顔が引き攣る。
はぁとリヴァイが大きく溜息をつく。正直言って気がすすまない。それでも、リヴァイの一存で一蹴する訳にもいかない。
憲兵団から、というよりウォール・シーナの内側に住む連中からの要請だからだ。
エレンとミカサを巨人の仲間だと糾弾し、解剖しろと喚いていた口で、今度は調査兵団が巨人に関する情報を秘匿する気だと言い出した。
今まで調査兵団が知り得た情報の内、きちんと裏付けがとれて実証出来たことに関しては公開している。
しかし、ハンジの個人的見解を含む個体差も含めて、要調査の情報は公開していない。これは憶測や願望が公式情報になるのを防ぐためで、決して秘匿ではないのだが、そう取らない者もいる。
知りたければ、自分達で巨人を捕らえて調べれば良いと思うのだが、それを行うのは調査兵団の役目なのだそうだ。
「おい、エレン。この容器にお前の精液を採取しろ」
「えっ?」
リヴァイの言葉がエレンの意識の端を掠めた。今、何と言ったのだろう、この人はと、キョトンとした眼差しで、エレンがリヴァイの顔を見やると、普段よりも五割増し不機嫌そうな、忌々しげな表情で睨まれた。
「俺だって不本意なんだよ。だがな、お前を奴等に引き渡すことが出来ない以上、仕方がねぇだろ。それとも何か?衆人環視の中で、どこかの雌と交尾したいとでも?」
「あの、待ってください!どうして、そんなことに?」
「詳しい説明は省く」
いや、そこを省かれたら自分は訳が分からないと、エレンは混乱を隠せない表情で頭を押さえる。
「要は、巨人は生殖器がないのが通説だ。ならば、お前が巨人でないなら、人類だというならば、生殖機能は正常なはずだということらしい。それを言うなら、そもそも、巨人は生命維持活動に食事を必要とせず、消化器官がない。普通に飯を食って排泄している時点で『これまでの巨人』のカテゴリーに入らない証明だと思うが、それはあくまでも通常の巨人ではないかもしれないだけだと言いやがる。切り刻まれるよりはマシだと思って、協力しろ」
舌打ちをしながらのリヴァイの台詞に、エレンは視線をあちこちに彷徨わせた。
自分が巨人として怖れられているのは知っていた。ハンジからも不快に思うかもしれないが実験や調査に協力して欲しいと頼まれてもいた。だが、エレン自身が、巨人となる自分のことを知りたいと思っていたから、そのことに嫌悪は無かった。
だが、これは違う。これは、エレンの人としての尊厳を貶めて、実験動物に堕とす行為だ。
「リヴァイ兵長…」
心許ない眼差しが、リヴァイを見上げてくるのに、リヴァイは口の中が苦くなった。
リヴァイ自身が納得した命令ではないのだ。完全に、ウォール・シーナに住む連中の肥大したエゴだ。
ハンジも今回の要請を知って、冷笑を浮かべた。
「あっちも焦ってるんだろうね。思っていたよりもエレンが調査兵団で迫害されていないから」
「ハンジ?どういう意味だ。ただの悪趣味な嫌がらせでないと?」
「嫌がらせ?まぁ、それもあるかもだけどね。どちらかと言えば嫉妬と焦りかな。あの審議所での光景を見てたら、エレンがリヴァイを恨むのが当然だと思うよ。それこそエレンがリヴァイを喰い殺すんじゃないかと期待してたんだろうね。それなのに、エレンはどこまでも従順にリヴァイの暴虐に耐えている」
「何が暴虐だ、躾と訓練だ」
「傍から見たら、虐待と紙一重だよ、リヴァイの態度は。まあ、リヴァイの当たりがきついから、周囲はエレンに同情的なんだろうけど」
普通、上に習ってエレンを虐待してもおかしくないのに、逆にあまりの健気な従順さが気の毒になって、あの上まだ蹴りを入れられる人間はそうはいないものね、とハンジが笑う。
「どれだけ暴虐無人な真似をリヴァイがしても巨人になれるエレンが反抗しないから、あいつらも欲しくなったんだろうね、自分達に従順な『巨人』が」
兵数では三百対二千、比較にもならない。だが、調査兵団にはエレンとリヴァイがいる。そして、リヴァイの再来と言われたミカサがいる。その上、調査兵団はエルヴィンを頂点に末端まで固く結束していて、隙がない。
リヴァイ程でないにしても、調査兵団の隊員五人の戦闘力は、憲兵団五十人を上回る。そして、最強と呼ばれるリヴァイに最凶とも言える巨人化出来るエレンが従順に従うとなれば、今まで以上にエルヴィンの発言を無視できなくなるとそう考えたか。
「エレンを飼うのは怖い。ほら、審議所で金色の瞳で睨まれたし、リヴァイに飛びかからんばかりの目を向けたのを知っているからね」
普段は木々の緑を思わせる優しい色の瞳だが、感情が激したり、巨人化したとき、エレンの瞳の色は金色になる。それすらも、化け物の証拠だと騒ぐ輩がいたが。
「だから、最初から人間に逆らわないように飼い慣らそうと。エレンの子供なら、巨人になるんじゃないかと考えたのかな?」
「馬鹿馬鹿しい、巨人の生殖方法は不明で、どうやって数を増やしているのか解らないんだぞ。エレンを化け物と呼びながら、人間を当てはめて考えるなど、まったくどこまで自分に都合良く考えりゃ気が済むんだ、あの豚どもは」
「そうだよねぇ、どうして巨人が人間の言うことに絶対服従するなんて幻想を抱けたのか、頭の中を覗いてみたいよ」
それに、巨人の子を孕まされる相手も可哀想だよねぇとハンジは口元だけで笑った。
今でも女は子作りの道具扱いされる傾向があるが、これほど女を侮辱した行為もない。
「実際の所、どうなんだ?エレンの子供は巨人化できるのか?」
「さぁね、でもエレンの存在自体が人為的に引き起こした突然変異に近いから、そのまま遺伝はしないんじゃないかな。植物の世界でも、原種に手を加えて品種改良するものだからね」
「巨人の子を孕めと言われた女が発狂しなけりゃ良いがな」
「まあ、好きにさせれば良いんじゃない?精液でも血液でも気が済むまで掻きまわせば良い」
「ほう、巨人マニアのお前にしては珍しいな」
「これは個人的見解だけど、エレン自身が外的要因で強制的に巨人化させられてる。だったら、エレンが普通に生殖行為をしても、巨人化する能力は遺伝しないよ。エレンと同じように巨人化する相手と交配すれば、可能性はあるかもだけど」
「だが、エレンが種なしだと、巨人説が強くなるんじゃねぇのか?でっちあげることも考えられるだろ」
「何言ってるのさ、人間にだって普通に無精子症て病気もあるんだよ?生殖器が有る時点で、エレンは人間でしょ。人間に化けた巨人なのか、巨人になれる人間なのか、お互いに何とでも言えるから、結局水掛け論になるよ」
第一、男型・女型と呼んでいるけれど生殖器のある巨人は発見されていないしね、とハンジの口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「私は巨人を創作することに興味はないよ。人から巨人になる、もしくは巨人が産み出される過程は気になるけど。エレンの生殖機能よりも彼の父親、イェーガー氏の研究ノートが凄く凄く気になる。憲兵団よりも先に彼の身柄を押さえたいんだけど、あまり大ぴらに兵を動かす訳にもいかないし」
チッと舌打ちをして指を噛む仕草をするハンジにリヴァイが「その辺はエルヴィンが考えているだろう」と応じた。
巨人の生態は謎だらけ、ハンジにすれば何としてもイェーガー氏の話を聞きたい。
気になるのは、ウォール・マリアで流行ったという疫病。その疫病を彼の薬が治療したという。
その疫病と薬の成分が気になる。
「エレンの精液を顕微鏡で覗いても、解かるのは人の平均値より多いか少ないかぐらいだよ、きっと」
だから好きに実験させてやりなよ、とハンジはヒラヒラと手を振った。
「あいつらにしたら、どうにかして難癖つけたいだけなんだから」
要請を断れば、非協力的だと責める材料を与えるだけだろうとハンジは言う。
エレンを化け物と呼び、殺して解剖しろと言った口で、今度は調査兵団が巨人の力を独占しようとしているとほざく。
「仮に、巨人化できる能力を持った子が生まれるか、手に入れたとしても、その子が自分達の手に負えなくなったら、私達に後始末を押しつけるんだろうね」
彼等に責任をとる覚悟も、巨人を殺すだけの技術もないよと、ハンジは口元に薄笑を浮かべた。
不毛と分かっていても、ハンジに話したのは、リヴァイ自身が納得出来ていないからだ。
とりあえず、今回断っても、違う形で要請がくるだろうし、壁外に出るまですべてを断り続けるのも無理がある。
下手に勘ぐられて、エレンをあちらに連れていかれ、あれこれ調べられる方が面倒だというのは両者の間で一致した。
『まったく、胸糞の悪い』。
リヴァイにとっても、気分の良い命令ではないから、さっさとすませてしまいたかった。
流石に、内容と理由があまりにも低俗過ぎて、エルヴィンを通して抗議する気も起きない。逆に、こんな馬鹿馬鹿しいことで、ただでさえ忙しいエルヴィンを煩わせたくなかった。なので、こちらで処理すると、端的な報告だけをあげるにとどめた。
寝台に座ったままの姿勢だったエレンは、膝の上にあるリヴァイが投げて寄越した器具を見て顔を引き攣らせた。
「…出来ません……」
「出来ないってのはどういうことだ?その銀管を差して、容器にお前の精液を採取するだけだろうが」
「だって、こんなの実験動物と同じ…」
「ああ?どこがだ?お前の手足を刻んだか?関節を固定して杭を打ち込んだか?眼球をえぐったか?」
実際にハンジが巨人に対してやった実験の数々を懇切丁寧に説明してやろうかとリヴァイが凄んだ。
「…こんなことに何の意味があるんですか!」
「意味を考えるのはお前じゃない。あっちが勝手に考える」
苛立ったリヴァイは「グチャグチャ言ってねぇで、いいからさっさとしろ」と、エレンの身体を寝台の上で押さえこみ、夜着代わりに着ているシャツをまくり上げてその下肢からズボンと下着を引き下ろした。
両足をばたつかせて抵抗を見せるエレンに、リヴァイが舌打ちをして、一際鋭い声で「エレン、俺の命令が聞けないのか」と叱責する。
リヴァイの『命令』という単語に、エレンの抵抗が一瞬止まった。これはリヴァイの躾の成果とも言える。
エレンの中で、リヴァイの命令は絶対なのだ。反論を許されず殴られることに対する恐怖も多少はある。だが、それ以上に、リヴァイに見放されたくない。軽蔑されたくない。敵と認識した視線で見下ろされたくない。
萎縮して身体を縮こまらせたエレンの両足首をリヴァイは掴んで、左右に開かせる。
剥き出しにしたエレンの性器はまだ幼かった。
まじまじとそれを見て、リヴァイが「…経験ないのか?」と問うと「……すみません。ないです」真っ赤な顔のエレンが小さな声で答える。
「すぐに手を出されそうなタイプなのにな」
リヴァイの手がエレンの顎を掴み、検分するように上向かせる。
顔の造りは悪くない。鍛えているが、少年を脱したばかりの身体は若木を思わせるしなやかさで、まだあまり男臭さはない。訓練兵団に入ったばかりの三年前ならば、もっと華奢な身体付きだったろう。それに負けん気の強さと青臭い正義感が前面に出る少年ならば、力で屈服させて、泣かせたいと思う輩を刺激するだろうに。
「無いです。オレ全然もてないです」
三年の間、隔離された場所で毎日を過酷な鍛錬の繰り返しで過ごす訓練兵団の団員の生活は鬱屈がたまる。
その鬱憤を晴らす対象は、どうしても弱い者にいきがちだ。エレンは十二で訓練兵団に入団した。入団当初は元々体格に恵まれていた訳ではなく、九歳で身寄りがないまま開拓地で暮らしたせいか、どちらかと言えば瞳の大きさが目立つ幼い顔立ちで、手足が細く華奢だったらしい。
ならば、ガキの正論を振りかざすエレンが気に喰わない者が、力で抑えつけようとしても不思議ではないのだが。
「お前の回りで、そういうことがなかったのか?訓練兵の間でも暴行は珍しい話じゃないが。それとも、性欲処理は女だったのか?」
「えっと、少なくともオレの宿舎では無かったと思います。オレ達の代は成績は女子のミカサが抜きんでていたし、上位のアニも地上での対人格闘術は凄い強くて、女子を性欲解消の対象にできる雰囲気じゃなかったというか、下ネタとかも口にできる雰囲気じゃなかったです。他の上位者も無理強いするな、手順を踏めって感じで。あの、でも両想いの恋人同士がいなかった訳でもないですよ。そういうのは邪魔しないというか、余所でやってるというか…」
普通、多数の人間が集まれば派閥が出来るものだが、エレン達一○四期の代はそれもなかった。
「ミカサとオレはアルミンと三人でよく一緒にいたけど、派閥とか興味なかったし。実技上位のライナーは自分からあまり人とかかわらない方で、同郷のベルトルトとよくいたけど、他とはあまり。あの、見た目ごついけど、実際は面倒見良くて良い奴なんですけど、強面だからあまりそれが知られてないっていうか、いざという時は頼りにされても、普段はあまりつるむ人間いなくて。アニはどちらかと言えば愛想がなくて人づきあい悪かったし。ジャンは仕切るのが上手くて、それなりに周囲に人がいたけど、でもオレとケンカする時は手下をけしかけるとか、周囲に助けを求めるとかしなかったし。腹立つこと多かったけど、でも数に物を言わせるとか、一人をよってたかって攻撃するような陰湿な性格じゃなかったから。他の連中もお山の大将になって踏ん反りかえるタイプじゃなくて」
同期で弱い者を虐めをするような奴はいないと、必死で言葉を探してエレンが同期の潔白を説明をするが、微妙にリヴァイの質問とはずれている。
「つまり、三年間、物凄く健全に訓練に明け暮れた生活だった訳だな」
なまじ成績上位者が同世代というのもあったのだろうか。年上の者がいると年齢差を理由に幅を利かせたり、自分の優位性を保とうと中で序列を作りがちなのだが。そして、下の人間を作ることで、周囲の人間も捌け口にして良い人間を作る。私的制裁や、強姦は禁止事項とされているが、所詮教官の数より訓練兵の方が多いのだ。
本気で刃向かわれるぐらいなら、多少は見て見ぬフリをするのが常で、弱者達は自分の身を守るために強者に阿る。それが余計に派閥と序列を形作っていくのだが。
「取り巻き連中とかもいなかったのか?」
リヴァイの質問にエレンは首を傾げる。
「どうだろう…でも、俺が知る限りはいなかったと」
ミカサに信奉者はいたが、ミカサ本人がエレンとアルミン以外は無関心というか視界に入らないので、取り巻く事ができない。
ライナーは見た目がごついせいで、周囲は遠巻きにしてる感じだったが、積極的にかかわろうとしなかった。彼と一緒にいたベルトルトは性格が温厚で、人との争いを好まない。波風を立てないように陰に隠れる性格だから、取り巻きを作るなどやるはずもない。アニは根っから他人とつるむのは拒絶していたし、サシャとコニーは皆で騒ぎはしても自分の力を誇示したい方ではない。どちらかと言えば、ちゃっかり強者の横か後ろにくっついていくタイプだった。
一番気弱なクリスタには、ちゃんとお目付け役のユミルがいて、周囲から守っていたし。
エレンと悉く対立したジャンも、将来の不安から荒れることはあったが、弱者をうっぷん晴らしの対象にするような陰湿さはなかった。少なくとも、エレンがいた宿舎はそれが許される場所ではなかった。
エレンの説明を聞いて、正しく訓練兵として訓練三昧の生活をし、三年間いたって健全で平和に暮らしていたのかと、リヴァイは自分自身と比べて思わず脱力した。
こいつはどれだけ純粋培養なんだと、思わずにはいられない。エレン達は決して恵まれた環境で育った訳ではない。エレンは母親を目の前で喰い殺され、父親や行方不明。ミカサは強盗に両親を殺され、育ての親も失っている。アルミンは読んだ書物から壁外への憬れを口にしてそのことで異端と馬鹿にされて苛められ、五年前のシガンシナ区陥落のせいで両親を失った。
リヴァイからすれば、他人を利用しようとする悪人は解りやすい。逆に善人の方が質が悪い。悪意が無く、善意で他者を踏みにじるからだ。解りやすい悪役よりも、小心者の方が扱いに困る。我が身可愛さに、卑屈に笑いながら、背中を向けた瞬間に自分は悪くないと斬りかかってくるからだ。
多分、審議所で見たのが初めてではないだろうか。
自分の利益を守ることに必死になって、都合の悪いことから目を逸らす大人達の醜悪さを目の当たりにしたのは。
リヴァイ個人としては、ウォール・シーナの連中に向かって、エレンがきった啖呵はこぎみ良かったが、その真っ直ぐさを青いなと思った。
根回しやら、段取りやらを吹き飛ばす勢いのエレンの激情。必死で自制しようとしても、自制しきれない、本音がだだ漏れな表情。
エレンの持つ素直さは、自分を偽る必要がなかった証だ。
理不尽に対する悔しさや屈辱を笑顔や無表情で覆う必要がなかったことを示している。
「まったく、世話の焼ける」
「リヴァイ兵長?」
かなり情けない格好のまま、平然と会話を続けていられるほどにエレンの神経は太くない。どうにか解放してもらえないだろうかと身動いだが、リヴァイに押さえつけられた。
「何度も言うが、お前の意思は関係ない。お前の身体はお前のものじゃない。だから、とっとと精液を採取させろ。それで、あっちはしばらく大人しくしているんだ。余計な手間をかけさせるな!ただでさえ、いらん手間が増えるというのに」
舌打ちとともに、リヴァイの手が、エレンの幼い性器を握る。そして、先端を剥きだしにすると細い銀色の管を一気に挿し込んだ。
「ヒィィッ!」
「唇や舌を噛むなよ、こんなことで巨人化されたらかなわん」
エレンのシャツの裾を捲って、エレンの口中に押し込みながら、ゆっくりと銀の管を深く隘路に沿って挿し入れていく。
フーッフーッと呼吸が荒れるエレンの瞳が大きく見開かれる。
器用に動くリヴァイの指先が、銀の管を操り、小刻みに出し入れされながら、じわりじわりと奥へと導いていく。
「エレン、流石に自慰ぐらいはしたことがあるだろ。それと何も変わらない」
衆人環視の中で、見知らぬ女とセックスするよりも、ミカサとの行為を強要されるよりも、ずっとマシだろうと、リヴァイがエレンの耳元で囁いた。
その言葉の意味を理解して、エレンの顔が驚愕に引き攣る。
「お前に言うことを聞かせる為には、ミカサとアルミンが有効だとあいつらも知っている。お前が従わなければ、今度はあいつらが標的になるぞ」
出来るなと、リヴァイの手がエレンの手を性器へと導く。
朝の掃除と洗濯、食べた朝食の片付けが終わり、厩舎の掃除をするのがエレンの日課だ。
決して、エレンが一人になる時間はなく、リヴァイ班の誰かがエレンの側にいる。
エレンは自分に対する監視だと思っている。確かに、監視の意味もある。いくら自傷行為と目的意識が無ければ巨人化しないとは言っても、「スプーンをひろう」程度の目的意識でも巨人化が発動するのだ。
手に怪我をした時点で、巨人化発動の可能性があると、調理に関しては刃物を持つなと言われている。
なので、もっぱらエレンの台所での仕事は洗い物と、食器や鍋、布巾類の煮沸消毒だ。
エレン本人に巨人になるという意識がなくとも、行為を意識して巨人化するというのが、取扱の難しさだ。
だからこそ、目が離せないというのは確かなのだが、それ以上に巨人化するエレンを危険視する輩が、エレンを排除するために危害を加えるかもしれない可能性がある為、その護衛についているという面がある。
実際、調査兵団が確保していた二体の巨人は、立体機動が使える兵団の誰かが殺している。
同じように、エレンが巨人と見なされて襲われないとも限らない。
トロスト区の扉は完全に封鎖されて、開閉は出来ない。壁の横から立体機動で下りるにしても、今度は馬と荷駄を積んだ台車が下ろせない。
あいにくと、旧市街地であっても、すでに巨人達が我が物顔で闊歩しており、ちんたら順次荷物と兵士を下ろして、部隊を編成する時間的余裕などなく、そんなことをすれば巨人をおびき寄せるだけで、デメリットも大きい。
大回りすることになるカラネス区からの迂回ルートを取らざるをえないのが、何とも歯痒い。
四年掛けて作った行路が全て白紙、新たにカラネス区からのルートを構築せよとは、何のために仲間達は死んだのかと脱力を覚えることもある。
それでも、『破壊された扉と壁を塞ぐ』ことが可能なら。ウォール・マリアを奪還出来る可能性が高くなるのも事実。
ウォール・マリアとシガンシナ区の穴を塞ぎ、取り敢えずシガンシナ区の巨人を駆逐、シガンシナ区を奪還する。そしてエレンの実家の地下室を調査して、イェーガー医師が残した巨人に関する報告書を手に入れる。それで、少なくも巨人の身体組織や構造に関しては解るんじゃないかなとハンジが言い添えた。
シガンシナ区を奪還出来れば、今まで作ったトロスト区からのルートも無駄にしなくてすむ。今まで備蓄のために構築したルートを補給ルートとして使い、両翼を広げるように二方面から兵を展開する軸に使えると。
まずは、穴を塞いでシガンシナ区を奪還する。これを最優先事項として、調査兵団内では徹底させた。
これは、エレンの巨人化する能力は大事な戦力なのだと周知させる為でもある。
エレンの力を当てにしている。そう告げることが出来れば、少しはこの新兵の気も楽になるだろうか。
だが、今でさえ人類の役に立たなくては殺されると、プレッシャーを感じているのが伝わってくるのに、これ以上の負担を強いるのも気の毒な気がして、つい言葉を探してしまう。
その上、言葉が足らないのは、リヴァイ兵長のこともある。
エレンの行動は、リヴァイ班には前日の内に知らされることが多い。ただ、エレンには当日知らされる。それで、招集を受けて、そのままリヴァイから「哨戒に出る、ついて来い」と馬上から言われ、二馬身以上遅れるなと命じられて、エレンは慌てて騎乗する。
哨戒に出ると言いながら、実際はほぼ一日馬を走らせて、哨戒索敵陣形の為の実働訓練に他ならない。
巡航速度とトップスピードの切り返しは長時間馬を走らせる為の配分、そして、馬上での長時間移動に身体を慣らす為。
調査兵団に所属してから馬の扱いを本格的に覚え始めたエレンなだけに、時間が足りないのだから、とにかく身体で覚えろというのがリヴァイの方針のようで、リヴァイ班の者達もそれに付き合っている。
実際、ずっと前傾の中腰姿勢を保っていられるはずもなく、力の抜き方は身体で覚えるしかない。ただ、リヴァイが側にいる時、エレンは緊張でガチガチになるので、余計に筋肉疲労に陥りやすいという点もある。
リヴァイが側にいることは、エレンを憲兵団で預かる為の前提条件。彼がいることで、周囲に対する牽制の役目もあるのだが、緊張してガチガチになっているエレンを見ると、気の毒というか微笑ましいというか。
リヴァイが怖いのかと、ペトラがエレンに尋ねたのは、そんな彼の態度が気になかったからだ。
すると、エレンは少し首を傾げた。
「怖くないと言ったら嘘になります。でも、何と言うか…オレ、凄くリヴァイ兵長に憧れていたんです。彼の強さがあれば、オレは母さんを助けられたという思いからかもしれません。それでも、昔から壁の外に出て行く調査兵団を毎回見送って、いつかオレも調査兵団に入るんだと思ってました。オレにとってリヴァイ兵長は強さとか自由の象徴みたいな存在で…だから、嫌われたくないというか、信じて欲しいというか、見放されたくない……」
審議所でリヴァイから暴行を受けた時は解らなかった。理不尽だと思ったし、腹もたった。だけど、彼はエレンに銃を向けるのではなく、自身の手足で攻撃をした。
安全な場所に自分の身を置いて、エレンを殺せと命じるのではなく、巨人化するエレンに手を挙げること(実際は足を上げて蹴りを入れるだったが)を怖れなかった。
ただのクソガキとエレンを見下ろしたその視線には、エレンには自分を害することは出来ないという揺るぎない自信があった。
「お前を殺すことは難しくない」そう言われた。それは確かに恐怖だけど、殺されたくないけれど、同時に安堵もしたのだ。
もし、自我のない自分が暴走して周囲の人間に攻撃したとしても、彼が止めてくれると。
ミカサは無条件でエレンの味方をするから、エレンを攻撃しようとする連中に刀を向けかねない。
だが、リヴァイ兵長なら「正気に戻れ、この馬鹿が!」と、巨人化したエレンを罵倒して、その項に埋まっているエレンを抉り出すのだろう。
その際、手足を切られているのはちょっと嫌だけど。それでも、引きずり出してくれるのだろう。そして、痛みに呻く自分の耳元で、罵声とともに説教するのだ。
「自分でも巨人化する力のことは何も解らなくて、怖いです。でも、オレはもう二度とミカサを襲いたくない。人間を攻撃したくない。ミカサなら巨人化したオレから逃げることが出来る。リヴァイ兵長なら、オレよりも強いから、オレに襲われても死んだり怪我をしたりしないと思える。オレは誰かを守れるのか、その力があるのか解らない。だから、側に居るのが強い人でないと不安なんです」
オレのせいで、誰かが死ぬのは嫌なんです、とエレンは力なく呟いた。
巨人の力に一番振り回されているのは、多分エレン本人なのだろうと、リヴァイ班の者達は察している。
もっと自分達を頼れと言いたい。でも、自分達とてエレンとの距離は手探りで、無条件に信頼出来ない以上、彼にだけそれを求めるのは一方的だと解っている。
駐屯兵団のピクシスは、巨人化するエレンのことを秘密兵器として扱った。
何の確証もなく、想像するしかないエレンの力を、まるで今まで秘密裏に研究してきた成果のように衆目の前で披露した。
それがエレンの命を繋げた面もあるが、余計に事態をややこしくした。
だが、それは現場に立つ者の危機感だ。
超大型巨人による扉の破壊。壁を越えて進入してきた巨人達との圧倒的な力の差による前衛の壊滅、中衛の潰走、置き去りにされた後衛の自滅。
唯一、自力脱出の為に巨人に襲われた本部の奪還を目指したのが正式配属前の訓練兵達とは、正規兵の面目丸潰れの事態だ。
本部詰めの正規兵も、本部に巨人の侵入を許した時点で補給を放棄、言い訳のしようもないが、それ程に目の前の巨人との力の差は大きかった。
だからこそ、トロスト区を奪還する必要があったのは解る。自分達も巨人と戦えると思えなければ、巨人が迫ってきた時点で崩壊する危険性があった。
あの時、駐屯兵団の誰もが巨人と戦って勝つことを諦めていた。自分達は巨人に喰われる、無駄死にだと、絶望しかなかった。
だからこそ、勝つ可能性を、現状を覆す希望が必要で、劇薬と解っていても巨人化するエレンを飲み干すしかなかったのだと。
エレンの幼馴染みだというアルミンが提案した作戦は、少しでも犠牲者を少なくする為の案だったが、それに頼らざるをえない程に、駐屯兵団は戦って勝つ自信がなかった。いや、どうやって戦えば良いのか解らなかったと言ってもいい。
実際、一○四期訓練兵の方が、対巨人戦に関しては、動きが良い。自分に出来ることと出来ないことの見極めが出来ており、出来ないことはやらないと割り切ってもいる。
いや、割り切ろうとする。力を温存するために、犠牲は仕方がないと言われても、納得はしていない。自分が喰われる立場でないから言える台詞だと、そう考えている半面、目的達成の為に、仲間が襲われていてもそれを助けにいくのではなく、それを囮にして巨人達を引きつける策を取ることが出来る。
一人でも多く生き残る為に、何をすべきか考える。仲間を助ける為に、巨人に向かうのではなく、死なない為に何をすべきか。
敵を討とうと突っ込むのは、逆にエレンの方だと。
彼とミカサが誘拐犯三人を殺したのは、九歳の時。何の躊躇もなく、犯人達の心臓を貫いたという。
それを憲兵団のナイルは危険視したが、供述調書によればエレンは彼等を人間ではないと言った。だから殺したのだと。憲兵団が来るまで待っていたら、奴等に逃げられた、ミカサは助けられなかった。そして力の差がある自分達では彼等を捕らえることは出来ない。だから、自分達の身を守るために殺したのだと。
見方を変えれば、『人間』を殺しては駄目だという認識があるから、『人間ではないクズ』と判断したとも言える。ならば、随分とまともだろうとリヴァイは言った。
昔の自分など『オレに危害をくわえようとする者、敵対すれば殺す』だったと。
悪だから討たれて当然というのは青い正義感とも言えるし、独善に陥る危険性もある。
それでも、エレンの中で明確な線引きがある。殺すのは、自分を殺そうとした奴だと。
訓練兵団に所属していたころ、内々では喧嘩っぱやい方ではあったようだが、一対多数を嫌い、必ず一対一。それに基本は素手で武器や道具を用いることもしない。
子供の喧嘩レベルだから、教官達も叱責はしても懲罰にはいたらなかったようだ。そのあたり、本人もきちんと計算はしているのだろう。
短気ではあるが、自制出来ない訳でもない。もし、こいつがその頃まま調査兵団に入ったら、随分と扱いが難しい新兵だったろうなぁと、リヴァイが珍しく苦笑してみせた。
『巨人を駆逐する』言葉にすれば、ほんのワンフレーズ。だが、それがどれ程困難なことか、一度でも壁外調査に出れば思い知る。
解らない奴は、壁外調査から生きて戻ってこられない。
一○四期を買ったのは、その恐怖に向き合えているからだ。怖い、嫌だと言いながら、それでも目を背けて小さくなって震えていたら、結局死ぬだけだと、自分の代わりに誰かが喰われるのを見る羽目になるだけだと理解している。
だが、エレンは、巨人化する力を得たせいでもないのだろうが、巨人を殺すことに駆られる。巨人憎しの思いが先に立つ。
巨人を殺す為に調査兵団に入りたいと、地下で鎖に繋がれながら、ギラギラした目で言い放った。
生きたいというのも嘘ではないだろうが、このまま地下牢で鎖に繋がれて生きたくないと表情が語っていた。
確かに多少不自由かもしれんが、衣食住に困らん生活をうらやむ者もいるだろうに、とリヴァイが言えば、ハンジが笑った。
「『飼われる』ことと『生きる』ことは同義じゃないと思うよ。壁の内側で、巨人の餌として飼われていたくない。だから、リヴァイだって調査兵団にいるんだろ?」と。
でなければ、面倒な兵団になんか所属してないでしょと。
人類の為に命を捧げる。違う、巨人との戦いで、死んだ者達との約束だからだ。
必ず現状を覆すと、巨人に怯える暮らし、囲いの中から空を見上げる暮らしからいつか抜け出して、彼等に世界の果てを見せてやるのだと。
死にたくはない、それでも壁の内側で無為に五十年生きるよりも、壁の外で死にたい。
この身体は荼毘に付されて誰とも解らぬ灰になっても、うち捨てられたままの乾いた骨になっても、志だけは残る。後に続く者達の胸にきっと根をおろす。
無駄死になんかじゃないと、そう信じて戦えることは、きっと幸せなことなのだ。
なぜなら、駐屯兵団にしても、憲兵団にしても、巨人と戦って勝つことを既に諦めている。
これ以上巨人の進行を許せば、人類滅亡の危機と叫びながら、一旦壁を突破されると何と脆いことか。
巨人に対する恐怖が、勝てるはずがないという、その絶望が透けて見える。
だから、エレンに対する態度がぶれるのだ。その事象の構造もわからないまま、彼の巨人化する力に頼ってトロスト区の奪還を言い出したピクシスだが、彼の意思は明確だ。
巨人から人類を守ること、巨人に勝つこと。その為にエレンを利用した。
確かに、岩で穴を塞ぐ案を出したアルミンは、本当に思いつきだったのだろう。普通に考えて、通常人間が持ち上げることが出来る重さは自分の体重の二倍、鍛えていても三倍が限度。それとて数十秒持ち上げるだけで、担いで運ぶとなれば無理だ。
それなのに、あの大岩を運べると考えたのは、あくまでも希望であって実行可能な策としてではない。エレンを生かす為に、無理矢理こじつけたようなものだと、リヴァイ達は判断している。
もっとも、ハンジからすれば、巨人化したエレンの筋力が気になって仕方が無いようだが。そもそも、巨人の体重は体積に比べて軽い。ならば、単純に考えれば構造が密ではなく脆いはずなのに、どうしてあの重量を担いで運べるのか解らないと。
ピクシスもエレンに賭けたというよりも、このままでは巨人に対する恐怖から駐屯兵団そのものが自壊すると判断したせいだ。
人類は巨人と戦える、そう己を奮い立たせることが出来なければ、士気の低下どころの話じゃない。砲弾にしても当たる物も当たらない。
ウォール・ローゼの壁上で、ここで死んでくれと言ったのは、腹を括れということだ。ここから逃げる場所などない、どうせ死ななければないらない命なら、巨人の命を削って死ねと。
かろうじて、駐屯兵団が防衛と呼べるのはピクシスが南の抑えを果たしてくれているからだが、今はトロスト区の復興に手を取られている。駐屯兵団全体どころか、四方に目を配ることも厳しい。南は彼の手で掌握出来るだろうが、さて。
三兵団のトップであるダリス・ザックレーに信頼されている間は、ドット・ピクシスの実権に揺るぎはない。今回のトロスト区奪還は、巨人化するエレンを味方として紹介するどころか兵団も了解済みとして説明してしまったため非難はある。だが、それもトロスト区奪還という功績の前では小さなものだ。例え南壁防衛を担う駐屯兵団の虎の子とも言える精鋭実働部隊を失っても。
逆にその事実から目を逸らす為にも、今回の奪還を大きく奉じる必要があった。
ウォール・シーナに人々が雪崩れ込むのを防ぐ為にもウォール・ローゼは安全だと宣伝する必要があった。詳細は伝えないまま、穴を塞いで奪還したことだけを伝えたものだから、ウォール・ローゼの商会は英雄譚のようにドラマスティックに商会誌で書き立てた。
ウォール・ローゼ、元ウォール・マリアの住人達は、人類の味方をしてくれる巨人を救世主と呼んだ。これは、先が見えない不安と閉塞感から、エレンに期待しての言葉だ。
巨人である彼ならウォール・ローゼを守ってくれる、ウォール・マリアを奪還してくれるに違いないと。
逆に、自分達が搾取する側で負担を強いていることを自覚しているウォール・シーナの住人は、巨人であるエレンが先導役になってウォール・シーナを攻めてきたらと不安に怯える。
弱者の逆転現象が起きている。
エレンを味方だと、秘密裏に研究してきた成果として紹介したのは早計だったと憲兵団のナイル・ドークはピクシスを非難したが、あの場でそう紹介しなければ、遠からず人に化けた巨人が隣にいるかもと、疑心暗鬼になった人々が魔女狩りへと暴走するのは目に見えていた。
あくまでも、巨人化出来る人間は、軍の管理下にいると示すことで、事態の沈静化を図ったのだと、ピクシスは反論した。
そして、助かりたければ、人類の味方であることを、生かせば有益であることを自ら示せとエレンに機会を与えた。
まぁ、賭けというよりも大博打だったが。ピクシスにとって、トロスト区奪還は必要だった。だがそれ以上に、エレンが人類の味方として巨人と戦って死ぬことは重要だった。
人類の敵である巨人が、人に化けて街に紛れ込んでいる、などと決して流布してはいけない話だからだ。
恐慌状態になって恐怖から反対意見を述べる相手を皆「お前は巨人だろう」と排斥しようとすれば収拾がつかなくなる。
巨人化できる相手を野放しにしていたとなれば、兵団に対する一般民の信頼が揺らぐ。
ならば、最初からエレンは兵団の管理下にあったと思わせた方がよいと、ピクシスは判断した。
あの時、エレンを始末しておけばこんな事態にはならなかったのだと、悪態をつくナイルに対して、砲弾を浴びても傷一つ負わなかったのに、どうやって殺すのかね。儂からすれば、よくあの情況で自制して反撃せずにいてくれた思うが。それに、生かしておいたから、彼はトロスト区奪還に成功したのだと。
まさか、彼の巨人化する能力なしに、駐屯兵団と憲兵団だけでトロスト区を奪還出来たとは言わんだろうなと。
「今回の倍の死者を出しても、とうてい奪還なぞ無理だぞ。それこそ、英雄ごっこにもならん」
それは結果論だと言うナイルに、お前さんの言葉も結果を見てからの言葉だとピクシスは受け流す。
そして、ナイルは悔しさに拳を振るわせることになる。あくまでも中立と言いながら、ピクシスはエレン寄りで、憲兵団の言葉に賛同しない。
調査兵団のエルヴィンは完全にエレン擁護の立場を取っている。
彼を監視していると言うが、ナイルから見れば監視など形ばかりで完全な囲い込みだ。
そしてエレンもリヴァイに対してだけでなく、調査兵団の通常勤務の団員達相手であっても少しも反抗的な態度をみせない。
日々、旧調査兵団本部の古城を掃除し、訓練を行い、合間に畑仕事を手伝っていると報告がきている。
今の所、エレンの能力に関しては未知数と、定例報告会で報告書が出されているが、実際は陰で研究が進んでいるのではないかと、疑っている。
あの化け物を飼い慣らす術を知っているのではないか、主だと認識させる方法があるのではないかと。
『化け物』が人の手で飼い慣らせるものか、とリヴァイあたりなら反論しただろうが、人類の為と自分を誤魔化すナイルにとって、エレンの存在は自分達、憲兵団を脅かす存在だった。
もしも、エレンの力を王政側が認めて、正式にウォール・シーナの警護を任せるようなことがあれば、自分達憲兵団はただの街の警邏になってしまう。
調査兵団こそが最強集団として頂点に君臨するような事態になれば、エルヴィンは憲兵団を壁外に出すかもしれない。
「君たちが兵団の中でエリートであるというのなら、それに相応しい実績を示せ」と。
憲兵団がまともに戦えないことを、ナイルは知っていた。少なくとも、各街区に駐屯している部隊の規律がゆるんでおり、まともな訓練すらしていないことは知っていた。
戦闘能力のない住民相手ならば、その権威で退がらせることも出来るが、実力が伴わないと見透かしている調査兵団には通じない。
エルヴィンやリヴァイだけではない。所属して数年の新兵に毛が生えたような一般兵ですら、憲兵団に対して態度や口調は丁寧だが辛辣だ。
彼等はエルヴィンの立場を考え、顔を立てて一応の礼儀を守りはするが、売られた喧嘩は倍値で買う。
変人と名高いハンジに捕まった者など、懇切丁寧にかつリアルな描写で巨人に対する実験の数々を聞かされ、しばらく精神状態が不安定になったが、ハンジの方は「嫌だなぁ、別に怪我はさせてないでしょう?私達の活動に興味があるようだったから、じっくりと聞かせてあげただけなのに」と薄ら笑いを浮かべて返してきた。
あの変人どもと悪態をつきながら、ナイルは調査兵団の戦闘力を侮ってはいなかった。
分隊長を務めるミケ・ザカリアスも人当たりが良い方でなく、何を考えているのか掴みづらいが、隊を率いての巨人討伐は定評がある。
変人、奇人といわれるハンジ・ゾエだが、決して屈強には見えないその身体で、戦闘力は通常の兵士を遙かに凌ぐ。だからこそ、巨人を単に討伐するのではなく捕縛に挑めるのだ。
小柄なリヴァイは、単純な腕力ではなく、そのスピードを乗せた加重と全身のボディバランスによる加速によって攻撃力が並外れている。
一癖も二癖もある連中を束ねるエルヴィンもまた、紳士然とした態度で実権を握ることに興味はない風を装っているが、そんなはずがないのだ。
無欲の者が、どうして三兵団の一つのトップになれるのか。彼は三兵団団長で一番若いというだけでなく、歴代調査兵団団長としても最年少で就任し、そのまま団長の地位を維持している。
ウォール・シーナが物資を出すことに難を見せれば、他の街区の実力者達を説き伏せて援助を引き出す。彼が団長に就任して以来、街区の者達が調査兵団に賭ける期待は増すばかりだ。
その期待こそが、ナイルが焦燥に駆られる要因だった。
「リヴァイ、さっきエレンを見かけたけど、眠そうな顔してたよ。初心者相手にあんまり無理させるもんじゃないよ」
「あぁ?うるせぇよ。あいつがいらん意地を張るのが悪いんだろうが」
今日も朝から旧調査兵団本部に詰めて、あれこれとエレンを監察しながらレポートを書くハンジの横で、リヴァイもまた書類仕事を行っている。
リヴァイの上げるエレンに関する報告書は、日々の訓練内容と習熟度、そして『特に問題なし』の私見で終わってしまうので、業務日報と訓練報告書でしかない。
あっさりと二枚程度で終わるそれもほとんど書式化されていて、あとは各班から上がってくる一○四期を含む訓練の進捗と、班内での態度を読んでいる。
団内の空気に関しては、取り敢えずは今回の壁外調査でどう転ぶか、というのが正直な所だ。
なので、あまりエレンについてあれこれとリヴァイが周囲に伝えることをしない。あくまでも、預かった新兵という扱いだ。
逆にハンジの方はエレンが何を食べたか、食欲はどうか、何を苦手にして何を得意としているのか、毎日の検温に顔色や体調、表情やら仕草から事細かに書いてるのだが、逆に細かすぎてどこの入院患者の診療記録かという勢いだ。
怪我をした時の回復具合を確認しようと、無理に傷を作るようなことはしないでください、と周囲に釘を刺されている程だ。
まあ、ハンジが傷を作る必要もなく、毎日のように擦過傷や軽い打撲程度は作っているのだが。もっとも、傷が治る側から、新しい傷を作っているが。
「だからって好き放題してるんじゃないだろうね。ただでさえ昼間は訓練で体力削られてるんだから、程々にしてやらないと」
「さあな」
「楽しい?」
「まさかだろ。立場を嵩にきて無理強いしている感があって気分が悪い」
「実際、同意もへったくれもない無理強いだからね。でも、エレンが男で良かったねぇ」 笑いながら軽く流されて、リヴァイは舌打ちをした。
ウォール・シーナの地下街で破落戸だった頃でさえ、性的暴行だけはしなかったというのに。
別に性的不能ではないから、行為の際中はそれなりに快楽はある。ただ、夜が明けるとひどく口の中が苦いのだ。
そもそも、調査兵団内では、女性兵士に対する性的行為の強要は厳禁されている。
これは、現状月一で壁外調査にでている為、馬上で揺すられ、巨人相手に立体機動で戦えば、上下左右にシェイクされるのと大差がなく、妊娠していればつわりなどの自覚症状がでる前に確実に流産するからだ。
馬上や戦闘中に流産を引き起こせば、その女性兵士は間違いなく死ぬ。
だから、一方的な行為の強要のみならず、両想いで同意の上であっても、性交渉をするなら、子供を産みたいなら、団を辞めてからにしろというのが鉄則になっている。
ちなみに、性行為を強要した男に対しては、意図的な計画殺人に準じると判断される。
これは女性兵士を守る為であると同時に、流産を引き起こして体調を崩し、パニックになられると周囲の危険が増すという判断だ。いや、適切な治療を施すこともできず、余計な人手を割ける余裕が有るわけもない壁外で、あえて不利な状況を作るなという意味が強い。自分一人で死ぬならともかく、腹の中にいる赤ん坊と、他の団員を巻き込んで死ぬなということで、その状況を作る原因となった男も連帯責任をいうよりも主犯とみなされる。
もちろん、法的根拠がある訳ではなく、調査兵団内部でのみ有効な不文律で、私刑扱いだが。
「普通、生存本能は性欲に勝るはずなんだけどねぇ」
危険察知が出来ないんじゃ、壁外で生きていけないよね、と不穏な笑顔とともに言い放ち、ハンジの手で去勢された兵士がいたが、それ以来調査兵団内で、女性兵士に対する性的強要はない。
ちなみに「去勢されると闘争本能が減退するそうだけど、どう?」とハンジに根掘り葉掘り尋ねられ、去勢された後々まで不遇な扱いになる。
ハンジの教育的指導が徹底され、調査兵団内で不埒な真似に及ぶ兵士はいない。ちなみに他の兵団が調査兵団の女性兵を襲おうとしても返り討ちにあうので、普通の判断力があれば手は出さない。
返り討ちにあったことを逆恨みして集団で襲った馬鹿も過去にはいたが、その連中は後日、手足の関節を砕かれ、頸椎損傷で辛うじて息をしている状態でいるのを裏路地で発見された。
事情聴取に対して「ただの破落戸どもの喧嘩だろう、街区の取り締まりは憲兵団の役目のはず、俺達調査兵団に関係はない」とミケを筆頭にした兵士達に白々しい笑顔で追い返されている。
生死の狭間の緊張感にさらされる壁外から戻ってきて、人肌が欲しくなるのは仕方がないが、それを相手に強要するな、というのが調査兵団での暗黙の了解だ。
ただし、女性の出産はことの他喜ばれる。残された恋人や、妻が出産するに際しても、兵団の皆が祝いの品と言葉を届ける程に。
死が身近だからこそ、新しい命の誕生を皆が喜ぶのだ。
だからこそ、リヴァイにしてもひどく気持ちの座りが悪いのだ。
元々、リヴァイは女性にもてるのだが、リヴァイを間近にするとその不機嫌そうな態度や辛辣な物言いに腰が退ける者が多い。
また、本人も性欲解消程度の付き合いはともかく、私的に恋愛をするのは面倒と考えているので、噂程には相手の数は多くない。
リヴァイは女性が嫌いというのではないが、女性特有の粘着性や束縛はひどく苦手だった。
内地の女達は、『人類最強』で『英雄』のリヴァイに憧れを抱く者が多く、中には「危険な壁外調査に出る必要などございません。憲兵団に入れるように私が父に頼みます」と勘違いも甚だしい物言いをする令嬢もいた。
その令嬢は「いつ、自分が憲兵団に入れてくれと、お前に仕事の斡旋を頼んだ?あぁ?」と、殺気に近い冷気を漂わせたリヴァイの表情に気圧されて、顔面蒼白になっていたが。
せめて、素人の婦女子には手加減しようよ、とハンジを含めた調査兵団の女性兵士達からも陳情がでたが、「まあ自業自得だよねと」いうのが彼女達の本音で、相手の親の立場を考えて形ばかりは諌めたというところだろうか。
基本的に、内地、特にウォール・シーナの住人がリヴァイは嫌いだった。
これはリヴァイの生い立ちも多少の関係がある。
リヴァイの最初の記憶は、白粉と香水、タバコと酒の入り交じった匂いだ。
彼が物心ついた時には、ウォール・シーナの娼館で暮らしていた。
彼の母親は、ウォール・シーナの実力者の正妻の座を狙ってリヴァイを産んだが捨てられた女だと聞かされた。他にも、さる貴族の令嬢が産んだ不義の子というのもあったし、娼館の娼婦が産んだ誰が父親か解らない子供というのもあった。
まあ、実際は娼館の前に捨てられていたのかもしれないと、リヴァイ本人は思っている。
ただ、娼館で男というのは基本的に役に立たないと置いてもらえない。
掃除やら洗濯、調理場での洗い物などの雑用として扱き使われたが、一番はやはり店の男達の憂さ晴らしだった。
これという理由もなく、殴られたり蹴られたりすることが日常だった。
あまりまともな食事を与えられず、身体が小さかったリヴァイが覚えたのは、攻撃を受け流すことだった。
派手に転がり、さも痛そうに呻いて蹲りながら、急所を庇い、衝撃を逃がす。
幼いリヴァイがここを出ても、生きていく術がない。いや、逃げる場所などない。
せめて、身体が大きくなるまで、反撃出来る力がつくまではと、歯を食いしばって耐えた。
娼館の女達は、リヴァイに優しかった。
男達に比べたら、というだけだが。
それでも、彼女達はせいぜい癇癪を起こしても物を投げるか、扇で叩くかぐらいで、男達の蹴りよりも痛みはずっと小さかった。
それに、機嫌が良い時は、リヴァイに食事や菓子を分けてくれたし、文字を教えてくれ、客からもらったという本も貸してくれた。
別にリヴァイ自身は娼婦という存在を蔑んでいる訳ではない。
このウォール・シーナには表通りから外れてはいるが、歓楽街が存在する。
これはウォール・マリアが陥落する前、開拓可能な土地はあっても、生活がきつい生産者のなり手は少なく、街区はすでに飽和状態で、人口の増加を抑制するという名目の元、作られていた。
ウォール・マリアが陥落してからは、特に歓楽街が隆盛を迎えているのは皮肉なことだが。
リヴァイが居たのも、そんな歓楽街では中堅といったあたりの店だったから、客筋はそう悪い者はいなかったし、店の女達もそこそこに綺麗で、そこそこに教養があった。
彼女達は口減らしのために売られてきた者が大半だったが、さほど己を不幸だと嘆いてはいなかった。
逆に、今更開拓地で生産者の暮らしは出来ない手をした女達だった。
男に身体を売ることで、糧を得て何が悪いと、そう考えている女達だった。
それでも、抑圧される環境であったのは間違いなく、幼い頃のリヴァイは彼女達にとって愛玩動物と変わらなかった。
精通もまだなリヴァイに対して、女を教えてやろうと触れてきた娼婦の手が、ひどく気持ち悪かったのを覚えている。
普段、客達の機嫌を取り、媚びて笑う彼女達にすれば、奔放に振り回せる幼いリヴァイは別の意味での捌け口だったのだろう。
おかげで閨の知識だけはやたらと覚えたが、リヴァイ自身はセックスが気持ちが良いと思えた試しがない。
情を交わす手段ではなく、欲望を解放する手段としてしか認識出来なかったせいだろうが。
それでも、店に通ってくる兵士から、対人戦闘の基本ぐらいは教えてもらうようになった。
小柄なリヴァイは、実年齢よりも幼く見えて、面白がって教えてくれた兵士もいたのだ。
ただ、それが実際に使われたのは、リヴァイが十五の年、常連にいた変態貴族に売られた時だった。
その貴族は幼い子供を犯すだけでなく、傷をつけては泣き叫んで許しを乞う様を楽しむ加虐趣味だった。
連れていかれた館で、リヴァイがその貴族を刺し、その上でその館に火をつけた。
どれだけ助けを呼ぼうが、訴えようが、普段ならば貴族の館には憲兵団も入ってこないが、火事だけは別だ。消火の為にも、延焼を防ぐために外から人が入ってくる。
貴族の加虐趣味そのままの地下室を開け放ち、リヴァイは適当な金目の物を抱えて逃げ出した。
地下には鎖で繋がれていたリヴァイの前任者とも言える少年がいた。
その側には、腹を刺された貴族。リヴァイを怯えさせようと、延々と彼をどのように調教したか説明している最中、リヴァイは燭台でその貴族を殴りつけてその蝋燭を立てる先端ででっぷりと太った腹を刺した。一応、急所を外しておいたのは、殺人犯として追われるのは避けたかったからだ。
貴族の私兵には追われるかもしれないが、流石に表立って娼館から買ってきた男に刺されたから捕まえてくれとは憲兵団も追求はしづらいだろう。
建前上は、人身売買は禁止されているのだから。
そして、リヴァイは地下に潜った。
表に歓楽街があるなら、裏には地下市場が存在する。
ミカサの両親を殺して、ミカサを掠った誘拐犯なども、ここに属する。
大地を耕すことも、物を作ったり商うこともせず、かといって兵団に入ることもしない。
他人を利用して利益を掠め取る事で生きようとする者達が集まる場所。
もしくは、ウォール・シーナの実力者達が、裏で商売敵を追い落とす為に金で雇う者達。
そこでリヴァイは一目置かれる存在になる。
幼少期の栄養不足がたたったのか、体格こそ大きくなかったが、眼が良く動きが俊敏だったし、度胸もあった。
今の戦闘スタイルの基本はこのとき出来たと言っても良い。腕の力ではなく、加速で攻撃力上乗せし、手数の多さで相手の反撃を削る。
一般の人達を襲うことはしないが、地下にいる者達から上前をはねる分にはさほど良心を痛めることなく奪うことが出来た。
だが、リヴァイとて解っていた。いくら地下で暴虐無人に振る舞おうと、所詮それは塀の内側。コップの中の水を揺らす程度のことだと。
娼館で見た薄暗い部屋と怠惰な欲望、貴族の館で見た煌びやかな部屋と特権意識を持つ連中の独りよがりな欲望、地下で感じた饐えた匂いと醜悪で歪な力による支配と従属が、リヴァイを潔癖症にした。
とにかく気持ち悪いのだ。女の白粉や香水の匂いが、饐えた匂いや腐敗臭が。
拭っても消えない血の匂いが、洗っても洗っても落ちない気がして仕方が無いのだ。
娼婦を馬鹿にするつもりはさらさらない。だが、彼女達は自ら籠の外に出ようとはしない。客に縋り、容色が衰えることを何よりも気にして、手当たり次第に怪しげな薬にも手をだしたりする。
貴族を名乗る者達は、自分達の生活基盤を支える者達は何か知ろうともしない。
壁の中は安全だと、自分の権威が脅かされることはないと信じて疑わない。
地下に住む者達は、閉塞感を下卑た笑いで誤魔化して腐肉を喰らう。結局は、地下の住人はネズミと変わらないのだ。押し込められた場所では、分け与えるのではなく、互いに喰らいあうばかり。
喰らわれる方でなく、喰らう方に回りたいというだけ、自分に正直とも言えるだろうが。
リヴァイにとって、壁の内側は息が詰まる場所なのだ。
危険だとされる壁外にでて、ようやく息をつくことができる。
飼われる家畜として死ぬよりも、平野でのたれ死ぬ方がましだと。同じ巨人に喰われて死ぬなら、最後まで抗って死にたいと願う程に、リヴァイは壁の内側に居場所を見いだせない。
エルヴィンに調査兵団という居場所を与えられながら、まだ心のどこかが飢えている。
「どうやって巨人は数を増やしているのか。分裂だとしたらもう少し身体的特徴が似通った集団がいても良いと思うんだよね。排卵するかどうかは別として、卵だとすると、雌雄同体としても、受精しないと駄目なんだよね。排卵時期に雌雄が分かれるのか、女王蜂みたいに、ひたすら卵を産み続ける個体がいるのか。それとも、植物みたいに自家受精が可能なのかな。だったら、エレンの精子で人間の女を孕ませて、巨人の子を産ませるよりも、巨人のエレンが巨人の子を孕む可能性だってありえるよねぇ」
ペンを指先でくるりと回転させて、ハンジがリヴァイに視線を向ける。
「憶測で物を言うんじゃねぇよ」
これ以上、事態をややこしくするなとリヴァイが顔を顰めた。
「あはは、自家受精だったら、分裂と同じように同系統の子供だね。巨人のエレンにそっくりな個体をエレンが産むのかな。巨人だと表面温度が熱いから、母体に負担がかかるよね。巨人の幼生ってどんなだろうね。人間の赤ん坊よりも大きいのかな。それとも人間に産み付けられるぐらいに小さいのかな?宿主に卵を産みつける寄生バチみたいに、巨人の幼生は宿主を食い散らかして孵化するのかな?」
冗談のような口調に反して、眼鏡の奥の瞳が底光りしている。
巨人は人の手で意図的に生み出すことが出来るのは、エレンの存在が証明している。最初は偶然だったかもしれない。しかし、人の手で歪められ、情報が制限されているのではないかと、ハンジは両手を組んだ上に顎を乗せた姿勢で目を細める。
ハンジ自身は権力闘争や三兵団による主導権争いには興味がない。政治的なことは団長であるエルヴィンに任せている。ただし、巨人に関する情報が隠されているなら、話は別だ。どんなに分厚い扉の向こうであっても、こじ開けてやる。
巨人を駆逐し、壁の外を自由に人が行き来できる時代を作る。その未来の為に仲間は死んだのだし、あがき続け、生きている間は模索し続けると彼等に約束したのだから。
その邪魔をするのは許さない。
だから、こちらも不和の種を蒔こう。ウォール教、憲兵団、ウォール・シーナの中枢にいる権威と財力を握る者達。
エレンという存在で、踊らせてやる。
「ねぇ、リヴァイ、エレンを壊さないでね」
「その言葉、そっくり返すぞ」
エレンの生家を、巨人の秘密を知られたくないと動くのは何処なのか。
それで、少しは絞り込むことが出来るはずだ。