華香る 白木蓮3月のライオン
島田×あかり
ああ、夢だなと思った。
これは、あの夏の晩だ。盆踊りに行けなくて拗ねていたモモ。桐山君が二階堂君を呼んでくれて、モモのご機嫌がたちまち直った。
私達は夜店に忙しくて。ありがたいことに売上もよくて、裏方の桐山君がてんてこ舞いで器を洗ってくれていた。
美味しいですよと道行く人に声をかけながら、そぞろ歩く人達を見るともなく眺めていた。
最初に見たとき、仕事帰りのサラリーマンかなと思った。
長身痩躯ですらりというよりは、ひょろりとした感じの細身の体形で、上着を腕にかけ、少し疲れた風で、お祭りを見に来たというより、誰かと待ち合わせかしらと。
営業向けの笑顔ですすめれば、それじゃと注文してくれた。食べたかったというより、すすめられから注文したというのが丸わかりのそれだったけれど、味には自信があったから、にっこり笑って器を差し出した。
匙でゼリーを掬う様子をドキドキしながら見ていた。一口含んで「うまい」と、思わずこぼれたような台詞が『そうでしょ』と嬉しかった。
祭りを眺めるためにそぞろ歩くという風でもない大人の男性。その人が桐山君の知り合いだとわかって驚いて。
突然の夕立に慌てて、倒れそうになった寸胴鍋を抱えて転びそうになった肢体を二本の腕が支えてくれた。
咄嗟のことだったのだろう。林田先生が胴回りを抱え、あの人は私の左腕を掴んだ。
雨を避けて店舗に寸胴鍋を運んで、軒先でお店を再開して。
あの人が桐山君の先輩で、二階堂君の兄弟子だと知って、急に親近感を覚えた。
林田先生が興奮した様子であの人の凄さを教えてくれたけれど、そんな大したものじゃないと苦笑まじりに答えるあの人の声は、柔らかく響いて。
失礼ながら、細い見た目は非力に見えたのに、祖父に頼まれれば、あっさりと業務用の30キロある粉袋や餡子になる赤小豆や白小豆の袋を軽々と運んで積み直してくれた。
今は運動らしい運動もしていないが、地元では農家の手伝いをしていたからと、笑って言うその声は、大人の男の人がもつ穏やかな声で不思議とよく響いた。
二階堂君がモモのエスコートをしていたのだと、初めて「スーパーボールすくい」をしたのだと、あの人に語る姿はどこか誇らしげに見える様子なのがおかしくて。
「そうか」と二階堂君の話を楽しそうに聞き、店の手伝いをする桐山君の様子に驚きながら微笑ましそうな笑みを浮かべる。山形出身だというけれど、別に訛りは無い。ただ、幾分ゆっくりとしゃべる口調とイントネーションが、のんびりとした穏やかな気性を思わせた。
最近、暑さで食事が細くなっているあの人を心配して、二階堂君が呼び出したらしい。 レモンゼリーを気に入ってくれたみたいで嬉しかった。
遠慮するあの人に、みんなで食べた方が美味しいからと、仕込んでいたカレーを皿に盛って手渡した。人数が増えて、バラバラの器に盛られたカレーは、お店のように綺麗なそれではなかったけど、温泉卵をのせたカレールーで作った家庭料理のカレーを、美味しそうに食べてくれた。
眦を下げて笑う目元に浮かぶ笑い皺。
優しそうな人だと、そう思ったのを覚えている。
あの突然の雨にのせいでひっくり返りそうになった鍋を抱えて私が倒れるのを庇うために、取られた腕についた指のあざ。ほんの数日、赤く残ったそれは、細く長い指、大きな手は男の人の手で。咄嗟に掴んだせいで力の加減ができなかったと申し訳ないと謝るあの人に、叔母や会長が悪乗りして責める言葉を口にすれば、どうすれば良いのかと慌てる表情を浮かべているのが、なぜかおかしくて。
私よりも一回りほど上だろうに、周囲の言葉を上手くさばけない様子が、こういう店にも不慣れなようで。
眉尻をさげるあの人に、気にしなくて良いと声をかけた。
今まで零君がうちに差し入れてくれたお土産や食材の中に、あの人から届いた物が結構な量あったのだと知ったのはもう少し後。
お店にはあまり来てくれない。お酒は薄めを頼まれるけれど、あまり顔に出なくて、酔って態度や口調が変わることもなくて、強いのか弱いのかよくわからない。
少し疲れた様子で、ネクタイを緩める仕草は、店でよく見かける仕事帰りに店に寄ってくれるサラリーマンと変わらないのに、息をついてグラス仰ぐ仕草にドキリとする。
この時期、暇な騎士は早々にトーナメントで負けた人間だそうで、勝っている騎士ならば対局とイベントに駆り出されて、夏休みなど実感しないまま夏が終わるのだとか。桐山君の場合、対局で学校をしょっちゅう休んでいるから補講とレポートを大量に抱えて合間に将棋のイベントに出向いていたようだ。
子供将棋では二階堂君の描いたニャー将棋絵本が好評だとか、将棋道場のお年寄りやサラリーマンには島田さんも人気だとか、お店に来る棋士達が話してくれた。
あの人のことを知らないといえば、祖父の相米二からは、ほれと雑誌を手渡された。
宗谷世代、そんな見出しがついたページには歴代で初めてタイトル全ての七冠を取り、現在五冠で名人である宗谷冬司と同年代のA級とB2級の棋士達が数ページ特集されていた。
A級では子供の頃から競い合ってきたライバルとして土橋の名前が大きく書かれていたが、遅咲きとして島田の写真が載っていた。和服姿のそれは将棋盤を前に幾分前のめりの姿勢で駒を指そうとしている場面で、見開いた瞳が炯々と輝き、頬がこけているのにわずかに唇の端を釣り上げて笑っている。
対比として載っていたのが、眦を下げた穏やかな笑顔なので、余計にその差異が大きかった。島田の簡単な経歴と、将棋の駒の産地である天童市のある山形県出身は、B級以上にいるのが島田だけで、地元の名人を出したいという悲願を一身に背負って戦っていること、地元の応援があったから今の自分があると、地元に還元するために地域援助の事業を行っていることなどが、我が身を削るような気迫の表情で将棋を指す写真の横に書き添えられていた。
去年は4タテで負けて地元山形での対局は実現しなかったが、20年をかけて確実に距離を詰めてきていると、天才である宗谷に果たして努力の積み重ねで島田が届くのか、そんな風に書かれていた文章の先には、届いて欲しいという言葉が見えた。
真面目で努力家で、後輩に対する面倒見も良い。それがお店であかりがよく聞く棋士達が語る島田。
優しくて、凄くて、胃痛もちなのが心配だというのが零君と二階堂君の語る島田。
「確かに優しくないとはいわんが、基本、我儘で負けず嫌いで頑固者よ?」
でなければA級で戦っていないとカラカラ笑ったのは神宮寺会長。あれが真面目で優しいだけの男だったら、とっくに田舎に帰って畑を耕していると。
地元に期待に応えたい、それは決して嘘じゃない。それでも、勝ちを獲りに行くのも、負けたくないのも島田自身の欲だよと。
ふとした時に二の腕をさする自分がいる。別に痛みなどない。それでも白い皮膚の下に、指の痕跡がある気がして。
腕に残る痣に、零ですらよろける粉袋を簡単に運ぶ背中に、大人の男の人なのだと、そう自覚したものの別に怖いとは思わなかった。店の客があかりの前でみせる好意や、その先を望む視線や言葉を島田からは感じたことはない。
店でグラスを傾け薄めに作った水割りを飲んでいる横顔に、膝にモモを乗せて将棋盤を眺める姿に、美味しそうに川本家のご飯を食べる表情に、なんとも楽しそうに相米二の話を聞いている様子に、あかりの気を惹こうという素振りはない。
笑って川本家と一緒にいる零と二階堂を見ている様は、すっかり保護者だ。だから、安心して彼を家の食事に呼べた。食べないと駄目ですと、強引に腕を引っ張ることができた。
一瞬困ったような顔をして、その後にお世話になりますと譲ってくれる。
島田さんをふくふくにしたいと言うと、ひなた達はまたかという顔をしたが、零は微妙な顔をした。それでも、持って行けとタッパにおかずを詰めると島田の元に運んでくれた。
彼は自分を「女」として見ていない。
だから、安心していられた。
「お邪魔します」
坂の途中にある幾分古い一軒家。小綺麗に手入れされた室内には、将棋に関する物であふれているが、地元の人から送られた応援の寄せ書きに、留守がちなせいであまり水やりをしなくていいからと小さなサボテンの鉢がいくつかある、どこか暖かみのあるそれは川本家にも似た雰囲気で、零をほっとさせた。
「よく来たなぁ」
居間から聞こえるすこしのんびりと間延びした声に、ああ棋譜をさらっているのだなと知る。
「あかりさんからおかず預かってきたので、冷蔵庫にいれておきますね」
「いつも悪いな」
よっこらしょと立ち上がり、台所にやってきた島田の前、零がいくつものタッパを取り出す。
胃痛持ちの島田のために、味付けはあっさり和風。
冬瓜の翡翠煮、かぼちゃのそぼろ煮、鰺の南蛮漬け、そして大盛りにいれてあったのが肉じゃが。お店で出すような綺麗なそれでなく、煮崩れ寸前まで煮込んだそれは、ご飯の上にのせて丼にしても良いし、カレー粉を少し足しても美味しいのだと入れてくれた。
「……凄いな」
こんなに食べきれないと、その表情で語る島田に、冷蔵庫でも数日持つし、なんなら小分けにして冷凍庫で保存してくださいと、器に少しづつ盛って、ラップに包まれたおかかおにぎりと一緒に電子レンジにかけた。
ゆっくりとした箸使いでおかずを食べる島田に背を向けて、お湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作る。
なぜだろう、幸田家にいるときよりも、島田の家にいる時の方が馴染んだ。
決して虐待された訳ではない。それでも嫌われたら、あの家を追い出されたら行く場所などどこにもないという危機感が常にあった。
嫌われたくないと、気を遣えば遣うほど、義姉の神経を逆なでするようで。
良い子ぶってとなじられても、だったらどうしろと言うのか。歩のように、引きこもるなど出来るはずがない。内弟子として引き取られたのだから、将棋に強くなる以外に術などなかった。
何を言っても、何をしても父親に本当の意味で見捨てらることがないという自信があるから、あれほど好き勝手ができるのだろうと、零は思う。
自分なら怖くてとても出来ない。
島田は零を緊張させない大人だった。零が未熟でも失敗しても許してくれる雰囲気がある。
中学生でプロデビューして、その後C1で足踏みしている零に、周囲の大人は頑張ってくれと言いながら、最初だけかと呆れ、少し騒がれていい気になってという雰囲気が滲んでいるように思えた。被害妄想なのかもしれないが、それでも天才棋士様はと陰口をたたかれていたのも知っている。
島田は未熟で当たり前だと、許してくれた。A級の彼には敵わなくて当たり前だと思えた。なまじ、幸田の父は師匠でありながら将棋では手が届いてしまったから、勝てると思えてしまったから、余計にA級で戦う島田に憧憬を覚えたのかもしれない。
自分が将棋に特化していることを自覚していたから、地元のお年寄り達のために頑張っていて、地元に人達と交流している姿に憧れたのかもしれない。
将棋をすることで、こんな風に周囲を笑顔に出来るのかと。
今にも倒れそうな疲れた表情で、それでも目だけは炯炯と輝いて駒を指すことをやめない人。対局だけでなく、その場を用意してくれた人の前に立つのも役目だと、来賓の前では穏やかに対応してみせる。あんなに気を遣っていれば、そりゃ胃も痛くなるだろうと、神宮寺会長が言う程に、周囲を気遣う。
そこそこ稼いで、生活できれば良いと、自分に言い訳していたことが恥ずかしくなるほどに、島田だけでなく二階堂もプロとして将棋盤の前にいることを知った。
「あいつ、しっかりしているように見えて、自分のことはグダグダだから」と神宮寺会長が笑う。
自分のことがいっつも後回しで疎かになるからと、ヨレヨレになっている島田の世話を焼くことが、零の中では自然だった。幸田家にいた時のように、良く思われたいとか、良い子にしなくてはというのではなく、本当に心配で目が離せなくて。川本家の人達が零の世話をやくのはこういう気持ちからかと思った。
見返りを求めてのことではない。ただ、心配で力になりたくて、笑ってくれると嬉しくて。ひなたが虐められているとき、何も出来なくて歯がゆかった。ひなたを心配して対局を落とすのだけは駄目だと踏ん張ったけれど、どうすればいいのか分からなくて。
誠二郎が現れた時も、あかりさん達が辛そうな顔をするのが許せなくて、やり方や言葉を間違えた。
島田は立派な大人だ。それでも、零が助けたいと差し出した手を、拒むのではなく受け入れてくれる。ありがとうと、零の好意をおせっかいと否定せずにいてくれる。
ただ、許される。そのことがこんなにも救われると知った。
「ああ、そうだ。これ佐伯と御神本から」
そう言って島田が差し出したA4の封筒には、請求書と納付書が入っていた。
「結構、引かれるんですね」
「まあな、もう10年たっているから、いろいろ手続きが面倒みたいだしな」
「う~ん」
「それでも墓を買うには十分だし、頭金にすれば家は買えるし、リフォームだってできるだろ」
「ですね、5年計画で頑張ります」
「……無理強いはするなよ」
「もちろんです」
島田が手渡したのは、今回零が精算した桐山家の遺産に関する書類だった。
幸田は零を引き取るときに養育費など受け取っていなかった。一刻も早く、あの場所から零を連れ出すことだけを考えていたようだ。
事故で零の家族が死んで10年になる。忘れた訳ではないけれど、区切りになる気がして、ふと零が島田の前で言葉に漏らした。
その後、佐伯がニコニコと笑って零にいくつか質問をして、幸田に電話で確認をして、「遺産取り返そうか?」と言い出した。
揉めるのを厭うて幸田が桐山の家から持ち出したのはアルバム一つ。零にクリスマスプレゼントとして渡した将棋の駒が、プロを諦めた父一輝が奨励会を辞めた時にもらった「退会駒」だと知ったのも随分と後だ。
桐山の家とはすっかり縁遠く、今更だと思ったのが顔に出ていたのだろう。
楽しげに笑った佐伯が言葉をつなぐ。
「こっちにお墓買って、分骨してもらうのはどう?遺産があれば、お墓買って、家買えるよ?三階建てとか二世帯住宅とか、がっつり耐震構造とかリフォームもできちゃうよ?」
零の収入は同世代の人間に比べれば多い。だが、ずっと幸田家に送金していたので、貯蓄は多くない。(幸田は預かっているだけだと、零が成人したら返す気だったが)
棋士だと自営業で収入も不安定だから、貯蓄がないとローンも厳しいかと思っていたところにこれは効いた。
「島田さんの知り合いだから、手付金なしで成功報酬の10%でどう?」と契約書を差し出され、思わずサインしていた。
長野の家にはあの葬式の日以来帰っていなかった。法事もあちらから連絡がなかったので、参列していない。
10年ぶりの帰郷だった。
やはりというか、叔母一家には噛みつかれた。それでも、彼等を見た時、老けたなと思った。意外なほどに、葬式の日に覚えた恐怖がなかった。
「あなた方は扶養義務を果たしていないのですから、零君に預かっていた遺産を返してくれということのどこが理不尽ですか」
応接間には零の他に弁護士の佐伯と島田が同行していた。
零君は未成年ですからと未成年後見人として幸田、神宮寺会長、島田の名前を出した。
零君の財産を勝手に使えないよう、複数の後見人と税理士が入りますと。
「零君のお父様一輝様が奥様を受取人にしていた生命保険が1億、奥様が一輝様を受取人にしていた生命保険が3000万、あと普通預金、定期預金、零君と妹さんにかけていた学資保険、信託で合わせて1億4,839万2,157円零君に返してください」
「何を馬鹿なことを!」
「馬鹿なことではありませんよ。法定相続人である、零君が受け継ぐ遺産です。病院が一輝氏にかけていた保険1億は病院にはいりましたし、彼が所有していた車2台はそちらが持っていますが算定にはいれていません」
随分と良心的な算定だと思いますが、そんな風に佐伯は笑った。未成年である今がギリギリだと佐伯は言った。今なら、神宮寺や島田の名前を最大限に利用できると。
最初、島田は俺も後見人になるのかと驚いた。別に嫌ではないが、ずっと世話をしてきた幸田や身元引き受け人でもある神宮寺と並んで良いものかと。
だが、わかりやすい有名人の名前がある方がいいからと手続きをしたのが佐伯だ。
インターネットで検索したとき、新聞にも出てる名前がある方がインパクトがあるからと。
「零!この恩知らず!」
「あいにくと恩を受けた覚えがありません。別にお金は稼いでいるし、病院の経営にも興味はないけど、僕の家族の物を勝手にされるのは我慢できない。向こうで家とお墓を買って、こちらには二度と戻る気はないので、家族の遺骨も分骨してください」
激高する叔母達に対して、零は淡々とした口調で応えた。今更、この人達には身内の情など期待していない。それよりも、両親の財産を勝手に使われるのが今更のように腹立たしかった。
「昔は無知で無力で何もできなかったけれど、今は力を貸してくれる人もいるし、弁護士を雇う稼ぎもある。時間はかかったけれど、黙って泣き寝入りはしません」
「別にこちらは裁判所に申し立てをしてもかまいませんが、零君は新人王も獲っていま注目の若手棋士です。泥沼の遺産争いをすれば、マスコミも放っておかないとおもいますよ?一輝さん達が亡くなった時、幼い零君には随分な仕打ちをされたそうですね?きっと皆さんいろいろとマイクに向かって話してくださると思いますが?」
「なんてことを!」
ワナワナと震える叔母の夫は真っ赤な顔で零達を睨む。冷めた目をした零の隣、佐伯は笑顔のままコーヒーをすすり、島田は黙って茶菓子を食べていた。
「桐山病院が提携しているのは医療法人の驛正会でしたね?」
「それが何か?」
「確か産婦人科、小児科、人工関節専門の整形外科の医師を派遣してもらっているんでしたか」
「だから、それが何だと言うんだ!」
「驛正会の理事長下村さんと理事の江口さん、こちらの島田八段の大ファンなんです」
そうなの?と島田が佐伯を見るが、佐伯は島田の視線を無視する。
「桐山病院が去年開業した特養施設、スタッフが集まらなくて認可が下りず、デイサービスとショートステイ回すのがギリギリで、長期受け入れの4階は閉めたままなんでしょ?悪評たったら、ますますスタッフも集まらないし、申し込みもなくなりますね?」
ただの世間話ですよと笑いながら、佐伯が叔母達を見る。
「零君から預かった遺産、もう使い込んで手元に無いとか言いませんよね?」
「零……」
ようやくという風に、祖父が零の名前を呼んだ。突然現れた孫に1億5千万近い金額を出せと言われてショックだったのかもしれないし、まるで他人を見る目で親族を見ていることがショックだったのかもしれない。
それでも、零にとってこの祖父は記憶もおぼろだった。
プロ棋士を目指していた父を否定し、跡を継ぐことになってからようやく零達家族を受け入れてくれた。
大人しい零は、この祖父にしっかりしろと叱られた覚えしかない。
父の一輝と指す将棋が楽しくて頑張ったけれど、祖父は零が将棋を指すことにいい顔をしなかった。10年ぶりに再会して、父が諦めたプロ棋士になった零をどう思っているのか分からないし、知りたいとも思わない。
零にとって相米二の方が、ずっと身近だ。
「この家と病院はあなた方で好きにすれば良い。だけど両親と妹が残した物は返してください。それはあなたがたの物ではなく、僕の物だ」
今までは思い出すことすら辛かった。だけど今年はちゃんと迎え火を焚くことが出来る気がする。家族との記憶は辛いことばかりではなかったと、ようやく思えるようになった。
だからこそ、両親の死を喜んだ叔母達に家族の財産を奪われたままではいたくない。
病院だから、外聞や評判は気にするからと、ネームバリューのある島田を後見人に選んだ佐伯の意図は、ある意味分かりやすい。
医者である彼等にはプロ棋士の肩書きなど意味が無い。それでもマスコミにも取り上げられ、島田を通して驛正会が医師の派遣を取りやめたら、病院経営が回らなくなるのは目に見えていた。
叔母の夫は内科医で、病院の稼ぎ頭は年間200件からの人工関節手術を行う整形外科だ。そして事業拡大を狙った特養施設はまだ実稼働できていない。
実際に驛正会が医師を引き上げるかどうかはわからないが、理事長である下村の桐山病院に対する印象が悪くなれば今後他の医者を派遣してもらうのが難しくなる可能性はあり得た。
本業コンサルタントとは信じられない程に、きっちりと桐山の実家から遺産分を徴収した佐伯は実に良い笑顔で、島田に調査に関する実費と報酬の請求書を渡した。
「…消費税もとるんですね」
「すまんな」
「いえ、ちゃんと両親の遺産は取り戻してくれましたし、桐山家の相続放棄の手続きもしてくれるそうですし」
祖父の財産に関しては、大きいのが病院の土地や建物になる。生前分与も面倒だが、死後分けるとなると財産評価が面倒で、零も病院経営には興味がない。
だからこそ、祖父の死後、財産は求めないと一筆入れた。まあ、生前放棄は出来ないのだが、遺産で再び叔母達と関わるのが面倒だというのもある。
一筆いれることで治まるなら、サインと判子ぐらいどうでもいい。
実際、祖父の財産は放棄すると言ったことで、両親の遺産を返せと言われていきり立っていたのが治まった。
相続税でおおよそ4割、佐伯にはらった報酬消費税込18%ほかにもいろいろ引かれて思ったよりも目減りしたけれど、島田の言うとおりお墓は買えるし、中古なら家も買える。リフォームなら二世帯住宅もいける。お店なら耐震構造にして改装できる。
よし、と頷く零を見て島田は苦笑した。零が恋をしているひなたにはまだ気持ちが通じていないようだが、着々を外堀を埋めているようだ。
まあ、変な方向に暴走しないと良いがと心配にもなるけれど。それでもまっすぐで、純粋にひなたを想う零が少し羨ましい。
自分はどうしても言い訳と逃げ道を用意してしまうから。
さて、零の両親が残した遺産をすっかり取り込んで安心していた叔母一家はどうなっただろう。流石に病院の会計からは出せないから、病院から借りたことにするのかなぁと意地悪く笑っていたのは税理士の御神本だ。
『零君の叔母さん達、経営の才能はあんまりないんだよね。彼女の旦那も診察の腕は評判よくないし。一応爺様の伝手で驛正会から腕の良い整形外科の医師を派遣してもらって、人工関節手術で稼いでいるんだよね、あの病院。驛正会もそんなに旨味がある話じゃないから、島田さんがあそこの病院を経営している夫婦は信用できないから気をつけたほうが良いとか話したら、切っ掛けができたと手を切るんじゃないかな?』と言われた。
まあ、地方の病院が潰れたら患者が困るから流石にそれはやらないが、想像するとちょっと怒りが静まる。
あの温厚な幸田が、腹立たしげに吐き捨てたのだから、相当だったのだろうとは思ったが、実際会ってみてわかった。ああ、これは桐山に会わせたくはないなと。
有名になってから桐山の親族に擦り寄られても面倒だ。名前だけ理事とかにされたら、なおさらやっかいだし。
年老いた零の祖父は、久しぶりに見た孫に戸惑っていた。
知っているはずなのに、他人よりも遠いのだと理解したせいだろう。息子の死に打ちひしがれて、孫を思えなかった老人の末だ。関係を修復する機会は今まであっただろうに。
それでもやはり、医者ではなく棋士を選んだ零は認められなかっただろうか。
将棋よりも勉強して医学部に入れと零に強要しただろうか。
島田は「たられば」は好きじゃない。自分が選んだ選択を誰かのせいにしたくはない。
だから、いま島田の前でリフォームの冊子を本気で眺めている零を見て、笑みがこぼれた。
「なあ、桐山。米届いたんだけど、持って帰る?」
「島田さん、うちに15kgの米をもらったら、一年は保ちますが」
「だよな、だったらあちらに持って行くかぁ」
「その方が喜ばれると思います」
やはり、美味しく食べてもらう方が米としても本望だろう。
学校のない土曜日の午後、零は将棋会館に出向き、棋譜をコピーして二階堂と仲の良い検討を行って周囲を和ませていた。
「いい加減しつこい!」
「逃げるのか?」
「逃げてない!」
相変わらず熱いなぁと、二人を眺めるのは大半が年上の棋士達だ。
以前は他人を拒絶する気配が強かった桐山だが、最近はそんな気配が薄くなった。振られても振られても向かっていく二階堂以外は、対応が素っ気なかったのが、最近はちゃんと顔を見て受け答えするようになった。
それだけで、不器用な高校生の顔がのぞくようになり、年配の棋士などは微笑ましく感じるようになった者もいる。
島田の研究会に入ってから、確実に強くなっている。オールラウンダーなのは変わらず、喧嘩を買って突っ込むところが無くなった。先まで読んで、守りを選び、待てるようになった。攻めるだけでなく、守ることが出来るようになり、攻守の切り替えが一層巧くなった。
末恐ろしいと、B級の棋士達が思う中、それでもあっさりと負けるのは癪だというのが大半の本音だろう。
「もう時間だ!」
「あっ」
島田と待ち合わせした時間だと零に告げられ、二階堂が急いで片付けを始める。
会館の入り口には島田がすでに待っていた。
島田の横にあるカートには茶色の紙袋。
「ビニール袋に入っていないお米って初めてみました」
「だろうな。これだと酒田のじんちゃんが作った米だと分かる」
精米と書かれただけで、日付も何も入っていない茶色の紙袋。精米した直後で、販売用の米でないと分かる。
カートで米を運びながら、途中の商店街で島田は牛肉のモモブロック肉、豚のモモブロック肉を買う。
つい、零が「豚の角煮美味しいんです」と言ったら、それじゃと豚バラのブロック肉も追加した。
魚屋にも寄って有頭エビ30匹に鮭15切を買う。
「島田さん?こんなに買うんですか?」
「うん?エビは塩水につければ冷凍できるし、鮭もラップに包めば冷凍できるだろ?お弁当にも使えるだろうし」
余れば冷凍すれば良いと、まとめ買いしたらしい。川本家に近いスーパーではなく、わざわざ将棋会館にちかい商店街で買ったのは、スーパーだと値段がばれるだろうと言われて気がついた。両手にずっしりと食材の袋を提げて島田の後ろを歩く。
ケーキ屋にもよってレアチーズケーキをワンホール買い、二階堂がその箱を持つ。
随分通い慣れた三月町の道。橋を渡って温かな川本家の呼び鈴を鳴らせば、モモが裸足のまま「ボドロ!はるのぶさん!」と突進してくる。
「いらっしゃい、零ちゃん」と嬉しそうな笑顔で迎えてくれるひなたに零が幾分照れたような顔を見せ、「またごちそうになります」と島田が玄関をくぐる。
田舎からの差し入れなのでどうぞと、茶色の紙袋に入った米を置き、テーブルには肉やら魚の食材を置くと、あかりが「あらあら、いつもすみません」と笑顔を見せる。最初は遠慮していたが、受けとってくれないなら、材料費を払わせてくださいと言われて受け取るようになった。
「あら、困ったわ。冷凍庫にこれ全部はいらない。ねえ桐山君、島田さん、何か食べたい物あります?」
「僕は何でも」
「だったら、ローストビーフをお願いします」
「ローストビーフ?すごいごちそう!」
「そうね、豪勢ね。ローストビーフ作っちゃいましょう」
はしゃぐひなたにあかりが笑顔で牛のもも肉と取り出す。
「ローストビーフって家庭でも作れるんですか?」
小声で島田に尋ねる零に、「作れるらしいぞ。オーブンかフライパンでも出来ると聞いた」と島田が答えた。
「桐山、女性に『何でもいい』は怒られるぞ」
「実体験ですか?」
「まあな」
下処理を始めるあかりを一度見ると、モモを指導する二階堂の様子に視線を移す。
オーバーアクションに必殺技を唱える二階堂の教え方は、島田にとっても新鮮だった。
「坊は小さい子に教えるの上手いな」
「本当に」
モモ達の横で零はひなたに勉強を教えている。
手持ち無沙汰だが、ここで棋譜を広げるのも無粋な気がして、指導用の詰め将棋を考えながら島田はゆったりとほうじ茶を飲む。
古い川本家は、とても生活の匂いがする家で、料理の匂いと耳をかすめる生活の音が島田にとっても田舎の実家を思い出させる空気があって、ひどく落ち着いた。
良く来たと、零達を迎える相米二にお邪魔していますと棋士達が頭を下げる。
「ほら、おじいちゃん。島田さんが持ってきてくれたの」
そう言って米袋をみせるあかりに、気を遣わせてすまねぇなぁと相米二が苦笑う。
「いえ、こちらも消費しきれないので」
食べきれないからと、度々食材を運んでくれる島田は、あかりが負担に思わないようにと気を遣う。
「そうだ、相米二さん。10日ほど和菓子250個ずつ納品って可能ですか?」
「なんだ?八段」
「来月、菊花展があるのですが、その期間だけ茶席を設けることになってて、和室は15人ほどで10時から4時まで7~8回転ほど、あとは長椅子で薄茶と和菓子を振る舞う形でやるらしいんですけど、お天気で数が上下するので、去年の目安で1日250個前後ということですが5時に翌日分を発注する形になるらしいんです。予算が一個200円以内で、9時に納品して欲しいそうなんです」
「良いのかい?」
「ええ、他のお店からとったのではなく、茶会を主催している先生がずっと取引していた菓子屋が店を閉めてしまって、代わりの店を探したのに1個200円だと納得いく菓子がなかったらしくて」
普通に東京で練りきりを探せば400円台する。かといって塩まんじゅうだと侘しい。そういうことだろう。
「話を聞いてくれるなら、ここに連絡をしてください」
島田はそう言って相米二に電話番号を書き添えたメモを差し出した。
「ありがとうよ」
「いえ、引き受けてくれれば助かります」
そう言って、島田は柔らかく微笑んだ。
いつも通り、和やかな食卓だった。島田のリクエストだったローストビーフも綺麗に焼き上がり、ひなたがごちそうだと喜び、ホテルやレストランでなくても作れるんだと零は驚き、二階堂はうちのシェフが作るのと遜色ないと頷きながら食べた。
さっぱりタマネギソースなのは自分と坊を気遣ってのことかなと、島田は厚めに切られたローストビーフを口に運ぶ。
気遣われるのは申し訳ないと思うが、同時にくすぐったいものだと思った。
島田が紹介したのは裏千家の茶道の師匠で、電話越しでもハキハキとした初老の男性だった。
菊花展なら、菊の花を写した『着せ綿』がいいかとは思うが、手間とコストを考えると250個を200円でそろえるのは厳しい。そこで秋の山の美しさを表現した『唐錦』を選んだ。赤・黄・緑の三色のこなしで漉し餡を包んで茶巾で絞り、色づく秋の山に見立てたお菓子だ。サンプルを作って見せると、もう少し色を淡くして欲しいと注文がはいる。
予算から少し小ぶりにして、秋山に見立ててふっくらとと微調整を繰り返す。
「おじいちゃん?」
いつものお店での作業が終わってから、茶巾で絞り、餡とのバランスを店の職人達と繰り返すのに、随分と気合いを入れているのね、とあかりが声をかける。
「八段の顔を潰す訳にはいかないからな」
「それは分かるけど」
「イベントの茶席なんて、お茶をやってない人間が大勢来る。だけどな、茶道をやっている人間も来るんだよ。その客達に、うちも使ってみようかと思ってもらえたら、新しい客筋になる。そう思ったから、うちを紹介してくれたんだ」
向こうも助かったとは言ってくれた。それでも、島田八段の紹介だからと三日月堂に依頼してくれたことは否めない。
たまたま着物の手入れで行った呉服屋で知り会ったのだという。島田が茶道を習ったということはないが、所作が貧しいのはよくないと、着物を着ての基本を教わったことがあるという。対局で相対する相手だけでなく、その場を提供してくれた人達に礼を込めることが大事だと師匠に言われたらしい。
対局が始まれば姿勢など気にしていられないが、それでも対局前の礼の姿勢が島田は美しい。普段は猫背気味なのに、席に着くとすうと背筋が伸びて、膝におかれる手までが泰然とした雰囲気になる。
テレビで島田の対局前の一礼を見てから、それを見るのが、あかりは好きだった。
この夏、相米二が倒れてしばらく店を休んだ。この商売は日銭商売で、店を閉めれば収入は無い。休めば即減収で、入院費用は出ていく。
孫達が嫁に行くまで頑張らねばと思う反面、将来の売上を考えると頭が痛いのも事実だ。
店を手伝ってくれている従業員も高齢で、店を閉めている間は申し訳無かった。
田舎に送るのでと、島田が三日月焼きを100個注文してくれたときもありがたがったが、仕事を紹介してくれるのは、なおありがたい。
優しくてすごく気遣いの人なのだと零が島田のことを評したが、本当に人間出来てるなと思う。その場限りで言いつくろう誠二郎とは雲泥の差だ。
夏祭りで出店を手伝ってくれた林田先生は、わかりやすぎるほどにあかりへの好意を隠さなかった。
対して島田はひどくわかりにくい。好意はあると思うのだが、どうにも攻め気が見えない。そして、あかりがそのことに安心しているように見えるのが何とももどかしい。
気持ちの良い男だと思う。ずっと努力と研鑽を積み重ねた揺るぎない強さを持つ男だとも。だが、年若い零を見ていてさえも、仕事より家庭をとるなどないと分かる。
将棋に向き合えば、あかりには背を向ける。それもわかってしまうから、相米二は迷うのだ。
「野菜ゼリーとかどうかしら?喉ごしが良いから食欲がなくても食べやすいと思うの」
誰に食べさせるつもりか丸わかりのメニューを口にする孫娘を見て、あかり、お前はどうする?と、相米二は言葉を口にすることなく吐息をついた。